十二月に提出された彼の辞表によると「陸奥国は、事、成熟しがたく」「国中疫病を患って、庶民は死に尽くし、鎮兵を差発することもできない。一方凶賊は強勇で、叛端がすでにうかがえる。それで奥郡の庶民は数度にわたって逃げ走っている」という状況であった。非戦派の緒嗣の按察使在任時代は、一応、つかの間の平和のときであったには違いないが、なお蝦夷反乱の兆候は続いていたのである。
その緒嗣に代わって按察使の任についた綿麻呂は、弘仁二年、志波三郡(和我・薭縫(ひえぬい)・斯波(しわ))を立郡し、また水害に悩まされていた志波城を南に移転して徳丹(とくたん)城(岩手県矢巾町(やはばちょう)、写真51)を造営した。現在の岩手県盛岡市あたりまでが正式に陸奥国の領域となったのである。これは律令制下における陸奥国の北限となった。というのは、一〇世紀初めに編纂された『延喜式(えんぎしき)』では、この三郡の名はもはやみえず、その南の胆沢・江差二郡が最北の郡とされているからである(史料三五八)。
写真51 徳丹城跡で発見された柵列跡
この年二月、陸奥・出羽両国の兵二万六〇〇〇人で、爾薩体・幣(閉)伊二村の征討が計画された(史料二七一)。しかしこれは坂東諸国からの兵の動員による計画的なものではないらしく、現地の独断的な作戦であった。中央の許可が出たときにはすでに兵は動いていた。征夷将軍も副将軍も、すべて按察使・出羽守・鎮守将軍・陸奥介といった現地の官僚たちである。
もっとも現地だけで二万六〇〇〇人もの兵を確保できたかどうか疑わしいし、実際の戦果を挙げたのは、出羽守大伴今人(おおとものいまひと)の用意した俘囚兵三〇〇人であるという。蝦夷のゲリラ戦に対して同じくゲリラ戦で応じたようなものである。「夷をもって夷を征する」策である(史料二八一)。どうもこのときの戦闘は、新たに建郡した三郡を確保するための予防戦的な意味合いが濃かったようだ。
もっともこの征討事業の影響は現在の上北地方と考えられる都母(つも)にまで及んでいったらしい。一説には、この事業はその南の岩手郡を挟打ちにするための作戦であったともいわれている。
とにもかくにも十二月にはこの戦闘が終結し、その功績に対して綿麻呂には従三位(じゅさんみ)が授けられている(史料二八四)。こうしてとくに華々しい戦果があったわけではないが、結果的にはこれで「三十八年戦争」の幕はあっけなく閉じられることとなった。これは同時に律令国家の東北経営の終了でもある。当時の律令国家にはもはやこうした大事業を国策として遂行するだけの力は残っていなかった。