これはそもそも安倍氏が賦貢を滞納し徭役を怠ったことに起因しているのではあるが、先にみた現地の在庁や関東武士をめぐる複雑な利害関係も一つの重要な要因であり、それに北の蝦夷の反乱が加わって拡大していったものである。
『今昔物語集』巻三一の第一一話には、次のような説話があって注目されている(史料四三七)。
今は昔、陸奥国に安倍頼時という兵がいた。その奥には、夷といって公に随わず戦いをいどむ者どもが住んでいる。頼時がこの夷と同心との噂があったので、源頼義が彼らを攻めたところ、頼時は、いまだ頼義公に攻められて勝ったものはいないといい、この奥の方より海の北にかすかに見渡せる地を目指して船で逃げた。船に乗ったのは、頼時をはじめとして、子の貞任・宗任ら、およびその郎等二十人ばかりである。やがてその地に着き、大河の河口に港を見つけ、そこからさらに三〇日ほど上流に遡った。いくら上っても川は深く、渡瀬などない。するとそこに胡国(ここく)の人を絵に描いたような姿をした千騎ばかりが馬を筏にして渡河しているところに遭遇した。このような不思議なところにいても益がないというので、また海を渡って引き返した。その後いくばくもなく頼時は死んだ。胡国というところは唐よりもはるかに北にあると聞いていたが、陸奥国の奥の夷の地に隣接しているのであろう。
この説話がどこまでの事実を伝えているのかを検証するのは難しいが、まったく荒唐無稽のものでもなかろう。前九年合戦の前から、北の世界では不穏な動きがあったらしい。しかもそれはおそらく今の青森県から北海道にかけての地域でのことと考えられる。
また右に描かれた胡国についても、その描写からみて沿海州方面からアムール川(写真63)流域と見なす学説が有力である。一〇〇〇騎もの騎馬軍団は、まさしく東北アジアの遊牧騎馬民族のものであったろうか。
写真63 アムール川 東征元帥府のおかれたあたり。
当時は、津軽海峡を挟んで本州と北海道が活発な交流を展開していた時期であり、さらに北では、擦文(さつもん)文化がオホーツク文化を吸収しつつある時代でもある。こうした異文化の接触が、一方で、しばしば戦闘状態を引き起こしていたのかもしれない。