「東夷征討」祈願

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このような清新で改革の機運に満ちた時代の雰囲気のなかで、年号が「延久」と改められる。その直後、後三条天皇は国家鎮護の軍神である石清水八幡宮に行幸し大般若経を供養して「征討東夷」の祈願を行った。ときに延久元年(一〇六九)五月。その目的はいったいどこにあったのか。この事績を伝える『皇代記』(石清水八幡宮記録第二八冊)には「頼義征討東夷之故也」と記され、一見すると七年前の前九年合戦の戦勝感謝・祈願成就の報賽供養であったかのようにも思われる。
 しかし実際の当時の動きを見ると、北奥の地ではこのときこそ、後三条天皇の「綸旨」(宣旨)を受けて、陸奥守源頼俊が「大将軍」として「追討人(使)」に任命され、その頼俊の指揮下で、鎮守府将軍清原武則の孫真衡ら北奥羽の軍勢が動員されて、「閉伊七村山徒」「衣曽別島荒夷」をはじめとする「三方之大□(賊ヵ)」を征討する大規模な軍事作戦が展開されていたのである(史料四六一・写真71)。「閉伊七村」は現在の岩手県の閉伊地方、「衣曽別島」は「エゾノワケシマ」と訓むことができ、津軽ないし糠部から北海道方面に向けての北方地域であろう。となると「三方」のうち地名が明記されなかったもう「一方」は、西の米代川流域から津軽方面であった可能性が高い。このように、この時期、九世紀以後も「蝦夷の地」のまま残った北奥羽地域(現在の青森県全域と秋田県の北部、岩手県の北部および海岸地域)に加えて、津軽海峡を越えた北海道南部までも対象にした、北方蝦夷征討の壮大な作戦が展開されていたことが注目される。

写真71 源頼俊申状

 その主人公の一人源頼俊は、清和源氏頼親流にして頼光・頼信の兄弟で「大和源氏」と称された頼親の孫にあたり、頼光の嫡孫頼綱(頼政の祖父)や、源頼義・頼家父子とならんで、当時有数の軍事貴族だった人物である。康平六年(一〇六三)には検非違使左右衛門尉として、安倍貞任・重任、藤原経清など前九年の合戦敗者の斬られた首の受取責任者となっている(『水左記』康平六年二月十六日条)。当時の年齢は四五歳前後。祖父頼親の跡を継いで大和源氏棟梁の地位にあり、又従兄弟の「河内源氏」棟梁義家(当時三一歳、下野守として坂東に赴任中)とはライバル関係にあった。そして二年前の治暦三年(一〇六七)に陸奥守に任じられ、一族・郎等を率いて奥州に赴任していたために、このとき後三条天皇の命で追討使に任命されたのである。キャリアからいっても年齢からいっても脂の乗りきった時期である。自らを抜擢してくれた後三条天皇の期待に応えるべく、意欲満々、勇躍して出陣したに違いない。
 こうした当時の動きを踏まえると、先に触れた『皇代記』の「頼征討東夷之故也」なる記述は、あるいは「頼征討東夷之故也」の誤写であったかもしれない(現在伝えられているものは近世の写本である)。また、それは七年前の前九年合戦の勝利の単なる報賽供養などではなく、今まさに行われようとしている一大軍事作戦の、戦勝祈願の意味を担っていたと考えた方がよいであろう。
 ちなみに源頼義による前九年合戦の報賽供養願文は、康平七年かその翌年、当代一流の学者として知られる藤原明衡によって起草され石清水八幡宮に奉納されている。