討幕の論功行賞

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さて一連の戦いの勲功の賞として、曽我貞光には新たに平賀郡法師脇(ほっしわき)郷(史料六六四。現在地は不詳)が与えられた。
 しかし建武政権下でよくあるごとく、曽我氏が姻戚の片穂氏から伝領した沼楯の所領の安堵をめぐって不手際があり、そのほかに所領に対する賦課の問題など、いろいろの事情があったのであろうが、翌建武二年(一三三五)十月、足利尊氏が鎌倉で建武政権に対して公然と反旗をひるがえすと、貞光も建武政権に見切りをつけ、ただちにそれに呼応したのである。安藤家季以下の安藤一族も同様であった(史料六七三~六七五ほか)。北畠顕家の扱いが、南部氏に厚く曽我氏や安藤氏に薄かったのは事実である。
 たとえば安藤氏の拠点外浜の一部は、南部師行・政長等にも与えられている。建武二年(一三三五)三月の顕家の袖判のある「陸奥国宣」によれば、外浜のうち、内摩部(うちまっぺ)(青森市内真部)・湖方(うしおかた)(同後潟)・中沢(なかざわ)(蓬田村中沢)といった外浜の要衝の地が南部氏に認められている(史料六六二・写真136)。これは持寄城陥落にいたる一連の津軽合戦についての論功行賞であるが、安藤氏にとっては不愉快なことであったろう。

写真136 陸奥国

 なお工藤氏も、鎌倉幕府滅亡に際しては、幕府方と後醍醐方とに分裂したが、多くは幕府方についたようである。八戸郷の工藤孫四郎・孫次郎経光のように、いったん後醍醐方につきながら日和見をしたために所領を没収された者もいる。岩手郡の工藤光家も建武元年に後醍醐方に反旗をひるがえし、南部信長に討たれている。