湊の始まり

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現在の十三湖に浮かぶ中島からは、律令国家の影響が認められる八世紀代の土師器も出土し、古代から港湾施設があった可能性も否定できないが、発掘調査や文献調査を総合すると、本格的な湊機能の始まりは一三世紀代と推定できる。
 時はあたかも奥州藤原氏の滅亡から、鎌倉幕府による全国的な開発が進展していた時期であり、奥大道を中心とする陸の道、そして古代以来の日本海域を中心とする海の道が整備され始めたころである。十三湊周辺におけるこの時期の出土遺物はそれほど多くないものの、山王坊(さんのうぼう)遺跡から出土したと伝えられる瀬戸四耳壺(しじこ)(写真168)は蔵骨器という性格上、十三湊周辺に居住した人々の葬制に、火葬の風習を伴うことと、陶磁器を蔵骨器とする京都文化の影響を認めることができる。この資料は一二世紀末に瀬戸で生産されたことは確実で、全国的にも出土例が少ないことから、十三湊の成立と周辺の開発行為を考える上で非常に重要な遺物である。

写真168 瀬戸四耳壺

 近年の発掘調査によると、これまで一五世紀の陶磁器が主体を占めていた十三湊遺跡の北側(土塁の北側)や、内潟に面した地点からは、一三世紀代の年代観を示す陶磁器も出土し、文献の面でも湊のはじまりを古い時期に想定できるようになってきている。
 十三湊が文献に見い出されるのは、室町時代中期ごろに成立した廻船式目(かいせんしきもく)の三津七湊(さんしんしちそう)の一つとして示された「奥州 津軽十三の湊」(史料七四〇)などと考えられてきた。がしかし、近年の調査では瀬戸内海にある広島県安芸津(あきつ)町所在の浄福寺に旧蔵され、応安四年(一三七一)に書写された「大般若経」の奥書に「奥州津軽十三湊」(口絵7頁)の文言が発見された。
 このことは一四世紀後半には、十三湊と日本海経由で瀬戸内海までの広域な流通経路ないしは人的交流の道が存在していることを示しており、北辺の湊のイメージというよりは、広域流通の拠点的湊と考えることもできる。また、十三湊の重要性は日本海交易の中核港湾であった三国湊(みくにみなと)(福井県三国町)の事例にも認められる。
正和五年(一三一六)の「大乗院文書」には、「関東御免津軽船」が三国湊において難破と見なされて積み荷の鮭と小袖を奪われたことに関する訴訟が記載されている(史料六〇八)。もしこの「津軽船」が十三湊を主要湊とする船であると考えると、船の所有形態は別にしても、北条得宗管轄下の船が一四世紀初頭段階から日本海を往来していたことになる。とくに積み荷の「鮭」は『庭訓往来(ていきんおうらい)』に記載された北方の特産物そのものである。
 さらに、若狭(わかさ)国羽賀(はが)寺縁起に記された「奥州十三湊日之本将軍安倍康季(やすすえ)(安藤康季)」の記述が永享八年(一四三六)のこと(史料七八〇)であるから、十三湊が一四世紀から一五世紀の段階では、列島のなかで重要な湊の一つとして認知されていたことを文献でも証明している。