図51 食生活の道具
1・2擂鉢,3粉挽き臼,4・5漆器,6・7箸,8折敷。
(8は弘前市堀越城跡,他は弘前市境関館出土)
このように粉食ともいえる食生活は、石製の粉挽き臼(図51-3)の存在と不可分の関係にある。境関館でも出土している粉挽き臼は、つい最近まで農家の板の間で回されていたものとほとんど同じである。石質はほとんどが安山岩を使用していることから、在地の石工によって生産されたものと考えられる。石質の面でいえば、同じく出土している茶臼(下臼に受け皿がついたもの)は凝灰岩が多用されており、在地生産品ではなく西日本からの搬入品の可能性が高い。
擂鉢で調理された食材はそのまま、あるいは囲炉裏に置かれた鉄鍋のなかで煮た上で食膳に出される。その場合に盛りつける器は、陶磁器や漆器で、武家社会の正式な食事場面では折敷(おしき)(図51-8)と呼ばれる膳に並べられて各人の前に運ばれる。もちろん箸(図51-6・7)で食することは現在と変わりない。
ここで使われる陶磁器は、ほぼ一〇〇パーセント中国・朝鮮や日本列島各地から搬入された製品である。これに対し、折敷・箸・柄杓(ひしゃく)などの木製品は、その素材に当地のヒバ材を使用したものが多いことから、在地で生産されたと考えられる。
漆塗り椀・皿に関しては問題がある。古代の場合は、大鰐町大平(おおだい)遺跡のように木地(きじ)の素材が検出されるなど、木地師(きじし)の集団が存在したことは明らかであるが、中世段階では木地師・塗師など、漆器製作にかかわる発掘例は少ない。
最近浪岡城の遺物を再検討していたら漆ベラが三点ほど発見され、城内に塗師が存在したことは確実となった。しかしながら、陶磁器と同様に食器として使用された漆塗り椀・皿の出土量に比して、漆塗りの工具等は少なく、今後は自給と搬入の両面から検討する必要があろう。