北畠氏は、鎮守府将軍兼陸奥守北畠顕家の子顕成(あきなり)を祖として、文中三年(一三七四)ころに閉伊郡船越から津軽に入部したというもの(史料七二八~七三一)、また顕家の弟である顕信(あきむね)の子の親統(ちかむね)が、元中三年(一三八六)八月に浪岡に入り奥州新国司を称した(史料七三五)というように、その始祖は明らかではない。
しかし、北畠親房の子孫が出羽国司となっているといわれ(史料八三八)、また、山科言継(やましなときつぐ)の日記『言継卿記』には、一六世紀の中ころに出羽国の浪岡具永(ともなが)・具運(ともゆき)の叙位・任官の記事が見える(史料九三二~九三五など)。山科家は浪岡北畠氏の朝廷取り次ぎ役的な立場にあったともみられる。そして、具永・具運といった名前は浪岡北畠氏の当主であり、伊勢国司の北畠氏と同じ「具」を通字とし、伊勢北畠氏と同じ時期に叙位・任官することが慣例となっていた(史料九三六)。浪岡北畠氏の官途は、従五位侍従から始まり、具永は従四位下左中将にまで昇進している。
浪岡北畠氏は、中世末から近世初期に書かれた諸記録からは、戦国期には「御所」と呼ばれており、その所領は現在の浪岡周辺を中心に、岩木川下流域から外浜の北半分に及んでいたといい、しかも松前家の家譜である「新羅之記録」によると、夷島の蠣崎慶広(かきざきよしひろ)は浪岡御所に「結属」しており、永禄三年(一五六〇)に浪岡顕慶(あきよし)(具運)に謁見し、外浜の潮潟の野田玉川村を与えられている(史料九四八・写真198)。浪岡御所北畠氏は夷島の蠣崎氏もその影響下に置き、日の本将軍安藤氏と密接な関係にある存在であった。
写真198 『新羅之記録』
したがって、為信の浪岡攻略は、安藤氏との関係を悪くするものであり、安藤氏による津軽侵攻を招くことになった。