福村城跡

512 ~ 514 / 553ページ
福村地区は、弘前駅から東へ約二・五キロメートルの平川下流域、平川と引座(ひきざ)川の合流点付近に位置する。福村城跡は福村の南側にあり、平川と腰巻(こしまき)川に挟まれた自然堤防上の標高二七~三一メートルに所在し、和徳から大光寺、堀越への旧街道の拠点となる位置にある。この福村城跡から和徳城跡までは約二・五キロメートル、大光寺城跡堀越城跡へは約三・五キロメートルの距離にあり、ほぼ中心地に位置している。
 福村城跡は後世に書かれた『本藩通観録』や『津軽歴代記類』などの史料によると、築城年代は天正二年(一五七四)と記されており、『津軽一統志』には天正三年(一五七五)と記されている。そしてこの福村城は、大浦氏が元亀二年(一五七一)に大浦城を築いた時に、その支城のひとつとして造られたと考えられている(図79)。

図79 福村城跡の地籍図

 発掘調査は、平成九年(一九九七)十月から行われた。その結果、堀跡に架けていた「橋脚跡」が検出された。橋脚は発掘調査区域東側半分に位置し、規模は、東西に二間、南北に二間の計七本の橋脚跡が検出された。橋脚はすべて斧や金斤(きんこう)(蛤刃(はまぐりば))で加工されており、平面形は極めて正方形に近いものであった。橋の幅については推定の域を脱しないが掛橋でさらに平橋であったと考えられる。橋の規模は間口が二間、長さが五間、橋脚一八本で構成され、渡り幅は四・七八メートル、長さは一八メートルで、城外から一度三五分(約三分)の上り勾配で本曲輪へ渡る橋であったと推測される。この橋脚の検出により福村城跡の大手虎口は本曲輪の南側である可能性が強まってきたといえる。また地籍図をみても橋脚が検出された部分には土塁によって「桝形虎口」が造り出されており、非常に発達した築城技術を取り入れているといえる。