農書の成立

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宝暦の飢饉の後には、凶作に備えるため津軽の気候に合わせた農書の成立がみられる。宝暦五年の飢饉に際しては、津軽の農書の草分けといえる蒲田(がまた)村(現南津軽郡尾上町)の一戸定右衛門による「耕作口伝書(こうさくくでんしょ)」(元禄十一年成立)が、各組の大庄屋を通じて農民たちに冷害凶作を乗り越えるための農業技術書として示されている(『五所川原市史』史料編2上巻解題)。
 同書は元禄の飢饉の後に書かれたものであるが、宝暦までにはおよそ五〇年以上が経過しており、その間に大地主による土地の集積、農民層の分解など、農村を取り巻く環境も大きな変動をみせていた。宝暦の飢饉の後には、安永五年(一七七六)に津軽における北限の稲作の技術を集大成した「耕作噺(こうさくばなし)」が田舎館組東光寺村(現黒石市)の中村喜時(なかむらよしとき)によってまとめられている。また、五本松村(現南津軽郡浪岡町)では筆者不詳の「津軽農書 案山子(かかし)物語」が書かれている。これらはいずれも津軽の稲作の中心地である現南津軽郡域のものだが、その他の地方でも、先述した芦萢村の惣三郎によっていわゆる「芦萢の惣三郎農書」が記されている。この二つとも成立年代は不詳であるが、いずれも地域の実態に即した稲作栽培の手引き書で、農業経営の方策も説いている。

図123.耕作噺
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 中村喜時庄屋役を勤め、水田約一〇〇〇役(約七〇ヘクタール)を持つ大地主で、夫婦仮子(かりこ)を一〇組以上抱える大規模経営を行っていた。ほかの著者もいずれも庄屋など上層農民に属する。彼らは飢饉の際には藩の求めに応じて飢民扶助も行っており、その農書の記述は、自らの体験によって裏付けされたものであった。津軽領の各地でこれら篤農家によって、冷害に耐えうる農作物の栽培・農業経営の試みが行われてきたのである。そしてこれらの農書は農民たちに回覧され、筆写されていった。