十八世紀に入ると、財政窮乏のため、藩士からの知行借り上(ちぎょうかりあ)げがしばしば行われる。これは実質的な俸禄(ほうろく)削減というべき性格のもので、基本的に定まった俸禄しか持たない藩士にとって生活を困窮させるものであった。津軽弘前藩では藩士への借り上げは元禄期からみられる。第三章第一節でみたように、元禄飢饉で財政が窮乏した元禄八年(一六九五)には、知行の半知借り上げを実施し、さらに一〇〇〇人余にものぼる藩士の人員整理を行った。それが半ば恒常化するのは享保末からで、享保十九年(一七三四)以降、一〇〇石以上の藩士から一〇俵(四石)ずつ借米を行う処置が、延享元年(一七四四)まで続いた(「秘苑」)。その後も藩は飢饉や天変地異による財政窮乏のたびごとに借り上げを実施している。一方、知行制そのものも十八世紀には大きな変動をみせる。藩の俸禄制度は知行制と蔵米制を繰り返していたが、宝暦改革期の一時的な蔵米制導入を経て、安永三年(一七七四)以降は蔵米制が常態となるのである。蔵米制のもとでは藩士への年貢米の支給率はその時々の藩の財政状況で容易に変更されうるものとなった。以上のように十八世紀は藩士の給与制度が藩の財政難を理由に大きく揺らいだ時期であった。