幕末に近い天保三年(一八三二)から、同九年(一八三八)まで断続的に続いた「天保の飢饉」は、北奥諸藩にとって最後の大きな飢饉であった。この飢饉は明治維新のわずか三〇年ほど前の出来事であったが、天保八年(一八三七)に起こった大塩平八郎の乱をはじめ、全国的に一揆・打ちこわしを誘発し、幕藩体制が揺らぐきっかけの一つとなった。八戸藩では、天保五年(一八三四)に野村軍記(のむらぐんき)の藩政改革に反発して久慈通(くじどおり)で大一揆が起こり、秋田藩でも買米制(ばいまいせい)をめぐって仙北郡(せんぼくぐん)を中心に一揆が発生している。津軽領では目立った一揆は起こらなかったものの、天明飢饉・元禄飢饉に次ぐ被害を出し、復興を遂げていた農村に打撃を与えた。