この時期の津軽弘前藩の蝦夷地警衛は、安政期の警衛同様、箱館千代ヶ台に元陣屋(もとじんや)、スッツに出張陣屋が置かれ、そこに勤番人数が派遣される体制がとられた。明治元年(一八六八)二月八日付で、明治新政府に対して提出された書付では、蝦夷地の警衛体制について、スッツに一〇〇人、箱館には二〇〇人を派遣、領内にも非常事態に備えて、上下四〇〇人ぐらいずつ、三番手までの人数を備えたと届け出ているが(『記類』下)、実際には、万延元年(一八六〇)から藩独自の内々の裁量によって、箱館詰の定数を一八四人、同じくスッツ詰の定数を九〇人詰に削減し、さらに慶応二年(一八六六)には、箱館詰の定数を一五四人、スッツ詰を七七人に減少している。その際、幕府側から「御尋」などがあった場合は、箱館奉行所との折衝に当たる箱館詰の留守居役から病気を理由とするなど、適当に取り繕うことにされていた(「箱館詰并スツヽ詰人数書上」国史津)。