これは、「安永律」の第四項目「火附御仕置」中の「一、火を附候者、男女不限火罪、但、乱心酒狂ニ而火を附るといふ共火罪相成、附火不燃立候共火罪(下略)」の規定がそのまま適用されたものである。喜助は弘前城下を引き廻され(第四章第三節五(一)参照)、取上の御仕置場で刑を執行された。
幕府による火罪は『拷問刑罰史』(一九六三年 雄山閣刊)によれば、次のようになる。罪木は栂(つが)の五寸角、長さ約三・六メートルのものを、約一・五メートル埋めて垂直に立てる。次に太い青竹を曲げて直径四五センチメートルほどの輪竹と、長さ約二メートルの青竹二本を用意する。この青竹二本をいっしょにして、その中央部を罪木柱の頂上に近いところに荒縄で結び、その竹の両端を下方に曲げてU字型にし、その端を柱に通した輪竹を釣るために、輪の二ヵ所で結ぶ。柱と竹と縄には、泥土を塗りつけて火に焼けないようにしておく。
柱の根元には細い薪一五、六本を束ねて踏み台とする。輪竹のまわり約一メートル離れたところに、燃料の薪を二一〇把使用して輪の形に立てめぐらせ、その高さを輪竹のあたりまで積み上げる。
受刑者は薪の踏み台の上に立たせられ、首・腕・腰・足首などが罪木柱に縛りつけられる。縛った縄にも泥を塗って焼けないようにする。茅(かや)が二重・三重に積み重ねられ、まるで蓑虫(みのむし)のように茅の山になる。
検使弾左衛門(だんざえもん)(穢多(えた)の総領で非人の支配権を持つ)の命令で、非人が茅二、三把を手に持って、火をつけ筵(むしろ)であおる。受刑者の苦悶(くもん)や叫喚(きょうかん)の惨景は茅と火で妨げられてみえないが、やがて下火となって無惨な黒こげ死体が現われる。火勢がまったく衰えると、非人たちは燃え残りなどを引き払う。そこで茅を四、五把ずつ手に持ち、一人は鼻を、一人は陰のうを焼く。女の場合は鼻と乳房を焼く。とどめ焚である。この黒こげ死体を三日二夜さらしておくことは、獄門の場合と同じである。
図8.火罪の様子
津軽領の場合は、火罪の材料として、罪木は約三・六メートルの丸太、身体を罪木に縛りつけるためと思われる胴かね一つ、二〇尋(ひろ)の長さの縄が五把、薪三〇〇把、雑木一〇〇本などという記録がみえるだけである(「国日記」寛延三年六月二日条)。幕府の材料と比較してやや簡略といえる。もちろん、茅や藁などの燃えやすい材料も使用されたはずである。材料はともかくとして、喜助は幕府と同じような方法で焼き殺されたのであろう。