南溜池に塵芥を捨てないようにという触書が出されたのは、宝永三年(一七〇六)十一月のことであった(「国日記」宝永三年十一月九・十五日条)。これは在府町から新寺町に至る大橋の整備が行われ、その際に南溜池の上と下の双方に塵芥を捨てないようにとの「御掟札」が出されたのである。塵芥投棄の禁止にあわせて、享保十八年(一七三三)と翌十九年には、塵芥を南溜池から回収する作業が行われ、享保十八年四月の塵芥上げには、一日に人夫一五〇人を要したといい(同前享保十八年四月二十九日条)、また翌十九年三月の塵芥上げには町人足一〇〇〇人を投入したという(同前同十九年三月二十八日条)。
享保二十一年(一七三六)四月、藩は南溜池の土居わきに塵芥捨てを禁止し、南溜池に塵が入らぬように指令した(同前享保二十一年四月二十九日条等)。しかし塵芥の投棄は禁止の触書を頻発しても収まるものではなく、むしろ増える傾向にあったためか、寛保三年(一七四三)閏四月には、南溜池付近の相良町に定めた「塵捨所」以外にはごみをみだりに捨てぬように、との指令に変更した(同前寛保三年閏四月二十一日条)。このような状況を打開するために、藩庁では、宝暦五年(一七五五)三月、「弘前廻塵芥捨場所」として、城下に「南溜池東土居添之下」のほか塵芥捨て場を一二ヵ所定めた(同前宝暦五年三月朔日条)。これらの場所以外に、塵芥を捨てることは厳禁された。次いで宝暦十一年四月には、新たに九ヵ所の「塵捨所」が定められ、その各々の場所には「建札」が立てられた(同前宝暦十一年四月七日条)。
これらの「塵捨所」の筆頭に「南溜池東土居添之下」が挙げられているのは、偶然ではないであろう。この後明和五年(一七六八)四月、天明三年(一七八三)五月、同六年六月にも南溜池へ塵芥を捨てたり、付近にみだりに塵芥を捨てることのないようにとの禁令が出されており、寛政五年(一七九三)四月には藩庁が指定していた、かつての「南溜池東土居添之下」に塵芥を捨てることが禁止された(同前寛政五年四月四日条)。これらの禁令にもかかわらず、こののち南溜池と南溜池一帯に塵芥を捨てることは止まず、藩では定めた塵芥捨所にそれらを捨てるように何度も指令したが、効果は薄かったようである。
右の事柄は弘前における、塵芥をめぐる都市問題の発生をうかがわせる。幕藩体制の変質期に入って、都市人口の増加、特に町方の増加は都市の発展を招来するものであった。しかし一八世紀に入り、弘前城下や領内の町方へ頻繁に出された奢侈(しゃし)禁止令や、侍身分に対する不作法の厳禁等の法令(「要記秘鑑」)は、当時の町方のさまざまな問題の噴出を示すものであり、かつまた都市問題の顕在化でもあった。一八世紀弘前における塵芥の処理は、深刻化しつつある都市問題の一つでもあった。