戦闘の開始

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では、ここにみえる前後の弘前藩の状況を、庄内出兵との関連に注目しながら、振り返ってみたい。
 弘前では、四月末に続々と庄内征討応援のための出兵が繰り返されていたが、こうした国元の状況を踏まえて、閏四月十三日、京都詰赤石礼次郎が京都詰藩兵の帰国を申請した(資料近世2No.五二五)。これは、弘前藩が討庄応援を命じられたが、庄内藩がいよいよ官軍に反抗し、会津と行動をともにするようになっては容易ならざることなので、人数が少ないながらも京都詰合兵を加えて藩主ともども尽力したいとの内容だった。この願い出は聞き届けられ、早々に人数を帰すよう許可が下りたのである。
 では、庄内方面の動向はどのようになっていたのであろうか。庄内藩征討のため、沢為量副総督を将とした総督軍は、参謀大山綱良(つなよし)以下薩摩藩兵一小隊および桂太郎を隊長とする長州藩兵一中隊が四月十四日、仙台領岩沼から天童城下へ向かった。四月十七日には山形・上ノ山両藩に応援出兵命令が出され、二十三日には新庄に本陣を移した。
 庄内藩でも十九日に全藩動員令を出し、総督軍の進路と予想される最上川沿いと秋田方面に当たる北方海岸沿いを重点的に部隊を配属した。
 先に述べたとおり、既に秋田藩には、庄内征討命令が出され、十八日には鎮撫総督軍から軍事役長屋清左衛門・山本登雲助が到着し、秋田藩の動きを統制していた。こうして、四月二十四日、両勢力の本格的な戦いが始まり、東北地方での戦火の口火が切られたのであった。