総督軍の集結

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さて、奥羽越列藩同盟の力が強まっていた仙台城下を脱出した九条道孝奥羽鎮撫総督一行は、盛岡へ向かい、同地に六月三日到着した。その後、六月二十四日に盛岡を出発、七月一日に秋田へ到着となる。
 一方、蝦夷地渡海を目指すべく大館(おおだて)まで進んでいた奥羽鎮撫総督副総督の沢為量一行は、津軽領の領内通行止めにあったこともあって、五月十六日より大館にとどまっていた。しかし、九条総督の秋田入領に時期を合わせ、同じく七月一日に秋田で合流した。この時政府軍の総勢は約一二五〇人で、ここに奥羽鎮撫総督軍の秋田総集結が実現したのであった。
 奥羽総督軍は、取り巻く情勢の悪化から比較的勤皇色の強い秋田へ退避したという様相が強かったが、ここで再集結した総督軍の態勢立て直しが図られた。秋田城下明徳館(めいとくかん)に陣を置いた総督府の中では、会津・庄内討伐に加え、仙台・米沢藩ら新たに朝敵に加わった諸藩の討伐が確認された。また、総督府一行を領内に迎えた秋田藩ではいまだ藩論の統一はみていなかったが、総督府では、亀田(かめだ)藩や本荘(ほんじょう)藩など周辺諸藩とともに秋田藩の勤皇方への帰順を要求した。秋田藩にとって大きな懸念は、同盟脱退に伴う諸藩からの報復であった。鎮撫総督軍を抱えることになったとはいえ、最悪の場合は、北・東・南の周辺諸藩すべてを敵に回すことになる。さらにこの時、仙台藩使者等も秋田城下へ訪れており、秋田藩の動向が注目されていた。
 秋田藩は七月三日、重役会議の末に勤皇方に付くことと、同盟脱退を決定した。
 七月四日、秋田藩佐竹義尭(よしたか)は総督府に庄内征討の先鋒を願い出、秋田藩の態度を内外に明らかにした。総督からはこの申し出を受け入れる返事が出され、秋田藩は庄内出兵へ向けて動き出すのである。同日中には藩内に庄内出兵命令が出された。この秋田藩の藩論決定により、秋田城下に滞在していた仙台藩士のうち六人が斬首され、五丁目橋のたもとに並べられた。同盟への離反を態度でもって示したのである。

図59.庄内戦争関係地図

 秋田藩の同盟脱退は、態度を決しかねている諸藩に大きな影響を与えた。とりもなおさず、越後方面、会津方面に加え、平潟からも政府軍が上陸し、戦線が同盟諸藩に迫っている時期である。そのうえ、秋田藩に同調して、本荘・新庄(しんじょう)、次いで亀田・矢島(やしま)藩が列藩同盟脱退を表明し、庄内藩征討の拠点が形成された。同盟軍にとっては外からの政府軍の侵攻のみならず、内からの攻撃にも備えなければならない状況となり、互いの疑心暗鬼によって内部崩壊を招きかねないことになり、大きな痛手であったといえよう。