さて、秋田に続きようやく藩論を勤皇に統一した弘前藩も、藩境を封鎖するなどの行動で受けた官軍方からの疑惑の念を払拭すべく、鎮撫総督府から征庄出兵命令を受けると(『弘前藩記事』一)、討庄応援兵の派遣を開始した。七月十八日、一等銃隊頭館山善左衛門および二等銃隊頭田中小四郎が藩兵を率いて秋田へ向かい、二十二日に同地へ到着した。また、二十日には、二等銃隊頭和嶋安左衛門(やすざえもん)が一小隊を率いて、二十三日には諸手(しょて)足軽頭の成田求馬が二小隊を率いて城下を出発した。彼らは七月二十八日に秋田の城下町へ到着(同前)。このように、弘前藩から派兵が続々と行われていった。
なお、奥羽鎮撫総督府は、出兵命令に加え、弘前藩領内に入り込んだ仙台兵の討ち取りを厳命し、弘前藩の態度について二心なきよう念を押した(同前)。これに対して、弘前藩は領内への侵入はないと返答したが、一刻も早く勤皇である証明をしなければならないことは明らかであった。
八月一日、成田求馬・和嶋安左衛門・田中宗右衛門が銃隊を率いて本荘に入った。敗戦の続いていた総督府からはすぐさま弘前藩兵に対し、塩越(しおこし)への出張が命じられ、同日夕刻には塩越へ向けた進軍を開始した。
八月二日、成田求馬らは平沢へ到達したところで、退却してきた秋田藩兵と出会い、戦況を知った。その結果、とりあえず弘前藩は平沢へ滞陣となったが、結局夜中には平沢から再び本荘に戻った。
そして八月四日、矢島藩奪回を目指すべく、弘前藩兵へも秋田藩応援として由利郡吉沢村への進攻を通知される。こうして矢島奪回には秋田・弘前両藩のほかに、福岡・佐賀・本荘・亀田藩兵などが動員され、八月五日、戦闘が開始した。戦闘は銃撃戦となったが、数に勝る同盟軍が戦局を優位に運び、夕刻には総督軍は本荘まで追い込まれる事態となった。この時、屋敷村から本荘へ他藩兵とともに引き揚げた弘前藩和嶋隊は二人の負傷者を出した。
一方、前日の作戦に沿って吉沢村に出兵した成田・田中隊は同所へ攻め入り、激しい戦闘となった。銃撃戦の末、秋田・弘前藩兵は接近戦を試みたのである。しかし、奮戦かなわず、大きな被害を出して、両藩兵は本荘への引き揚げ命令を受けた。この戦いで弘前藩は、隊長である成田求馬を含めて死者一〇人、負傷者一一人という犠牲を出した(資料近世2No.五四〇)。
また、亀田藩が同盟軍に対して降伏をしたため、本荘藩はさらに苦しい状況にあった。結局、追い込まれた総督軍は本荘からも退き、とうとう秋田領へと撤退せざるをえなくなった。