明治二年(一八六九)五月に榎本武揚(えのもとたけあき)が降伏して箱館は陥落し、一年半にわたった内乱はようやく終結をみた。弘前藩兵も続々と凱旋を果たしたが、一部の部隊は戦後も箱館駐留を命じられたり、室蘭方面などに残存した敵兵の武装解除に従事せねばならず、最終的に全軍が弘前に戻ったのは同十月下旬のことである。また、領内でも榎本ら降伏人の東京護送や保護・監禁にも多忙で(資料近世2No.五六九)、決してすぐに緊張が和らいだわけではなく、解決すべき政治課題は山積していた。
そのような状況の中で、藩が最初に着手しなければならなかったのは、戦没者の慰霊と論功行賞であった。前者については二年六月六日に、宇和野(うわの)(現市内小沢)に神式で祭壇をしつらえ、藩主承昭(つぐあきら)臨席のもと、六七柱の慰霊を執行している(戦死者については本章第二節三表15参照)。また、後者の賞典禄(しょうてんろく)の下賜(かし)についてみると、まず藩主承昭に対して東北戦争の戦功として同六月二日、一万石が永世禄として与えられ、箱館戦争の戦功として九月十四日に一万石が三ヵ年限で朝廷より下賜された。
そして、藩士らに対する賞典禄は実際の戦場における戦果を調査したうえで、承昭が得た賞典禄二万石から分与されることとなった。調査は二年末には終了し、十二月二十五日より二十九日まで藩庁に対象者を集めて下付されたが、明治三年(一八七〇)二月・六月にも慰労分として米と金が与えられた。それらの総数は賞典対象者二五三〇人、件数二六四一にのぼり、内容は米二〇一〇石余、金一万七八九六両余と二九万三三〇〇疋(ひき)、銀一八〇匁(もんめ)、銭二七八六貫六〇文目(もんめ)、二〇人扶持、昇進九三件、拝謁二二件であった(資料近世2No.六一〇)。