続いて弘前藩が早急に着手しなければならなかった政治課題は、新政府の指令する藩治職制(はんちしょくせい)への対応であった。戊辰戦争が終わって新政府が危険視したのは、戦時中に膨張してしまった諸藩の軍事力であった。弘前藩でも大規模な軍制改革の結果、藩士総銃隊ともいえる状況を示しており、全国的にみれば諸藩の軍事力は非常な脅威であり、これをいかに削減するか、また、いかに中央集権的国家体制を確立するかが新政府の最大関心事だった。元来、幕藩体制下では諸大名は個別に領地の領有権を保証されていたから、幕藩体制の枠外に出ない限り比較的柔軟な藩体制のあり方を認められていた。だがそれを放置しておくと、新政府の指令が十分に浸透していかない。そこで個々にばらつきのある諸藩の職制を統一し、各役職の職務内容を明確に規定し、役職や藩兵の人員も石高に応じて規制していこうとする新政府による一連の指令が藩治職制と呼ばれるもので、当然それは大規模な藩政改革を促した。
藩兵解体にしろ、藩治職制にしろ、それらはすでに明治元年中に臨戦態勢から解放された西日本の地域では着手されていた。しかし、弘前藩の場合は明治二年五月まで戊辰戦争に忙殺されていたため、これに対応する余裕はまったくなく、意識も極めて鈍感なものであった。藩治職制の指令そのものは元年中に藩に伝達されたが(『弘前藩記事』明治元年十二月二十四日条)、それへの対応は二年一月二十六日に旧染一新(きゅうせんいっしん)を表明する藩主承昭(つぐあきら)の親書が発布されたのみで、特に具体的な変革を伴うものではなかった。また、同年三月二十日にも人材登用を進める旨の布達が発せられたが(同前明治二年三月二十日条)、箱館戦争の終結に総力を傾けていた当時、いたずらに藩体制に大幅な変更を加えることは軍事組織や命令系統にも混乱をきたす恐れがあった。よって、弘前藩が藩治職制の指令に応えて本格的に藩政改革を断行したのは、箱館戦争が終わった後の明治二年六月十二日からのことであった。