衣服の材料である生地(きじ)に対して、藩ではどのように規制していたのであろうか。
延宝九年(一六八一)の「農民法度」第一七・二六・二七条が、現存する史料で具体的に示された最古のものである(「御定法古格」弘図八、「御定法編年録」弘図岩)。それによると、農民は原則として日常は絹・紬(つむぎ)の使用が認められておらず麻布であったと推定される。
前述の『御用格』元禄十六年(一七〇三)三月条によれば、日常の農作業の際は麻布の着用を、特別の場合は高価でない木綿を許可している(資料近世1No.七七八)。安永六年(一七七七)二月には、手織(自家製)の木綿の使用はよろしいが、麻布の着用が原則であったことがみえている(「国日記」安永六年二月十五日条)。
「国日記」寛政二年二月十一日条にみえる倹約令の第一条に、「在々男女共衣服之儀、一統布木綿相用候様」とあり、麻布と木綿の両方を着用することが、明確に規定されている。その後、幕末まで右と同じような規定が多数みえている。