本町と町家

479 ~ 481 / 767ページ
宝暦八年(一七五八)成立の「津軽見聞記(つがるけんぶんき)」(『新編青森県叢書』(三) 一九七三年 歴史図書社刊)に、次のようなことが記されている。
 一、弘前といふは御城下にして繁昌の所なり。凡そ十町四方も有へし。外(ほか)に秋田よりの入口と青森への出口は一筋町にて、町はづれより十町余も出放建続(ではなしたてつづき)てあり。本町一筋目より四丁日迄此外(このほか)町々多く皆々家建よし。此処(ここ)にかぎらず領内町造りの所は都(すべ)て家居(いえい)は広大なり。其処(そのところ)にて少しも勝手よろしき町人は居宅は凡(およそ)十間以上より三十間斗(ばかり)までもあり。(傍点・ふりがな筆者)

 右の「凡十間以上より三十間斗」というのは、本町(ほんちょう)の町家ばかりを指すものとはいえないであろうが、道路に面した表側の間口(まぐち)を意味するものと思われる。
 また、宝暦六年の「本町支配町屋鋪改大帳」一(弘図古)にみえる本町一丁目~五丁目までのうち、まっすぐに東西に走る道路に面した本町三丁目・同四丁目の間口一〇間(約一八メートル)以上の家は、左のとおりである(一間は約一・八メートル。大きい間口がすべて豪商ばかりとはいえないであろうが、一応の目安とはなろう)。
本町三丁目北側七軒のうち五軒
同じく南側八軒のうち四軒
本町四丁目北側四軒のうち三軒
同じく南側三軒のうち三軒

 これは「津軽見聞記」の傍点部分の記事をほぼ裏付けるものといえよう。
 次に一般の町人の店と思われるものに、「奥民図彙」(資料近世2No.二四六)に描かれた町家の絵がある。図をみると「本町辺薬種店」と記され、屋根の上に火災予防の水桶がみえ、店先の通路に対して「小ミセと云(いう)モノ町コ(ご)トニアリ、其幅九尺或(あるいは)一間計(ばかり)、往来ノ人雨天ノトキ、雪中ナトハ(などは)、ミナ此小ミセヲ通行ス」(ふりがな筆者)の説明文がある。この小ミセ(小店・小見世)は、今では多くアーケードにかわっているが、江戸時代の小店をしのばせるものが今でも弘前市内に残されている。これは利度が高く、積雪の多い地方の雁木(がんき)と共通するものであった。

図125.本町辺薬種店

 図によって弘前城下の町家の屋根は、柾葺か板葺であったと推定される。しかし、寛保三年(一七四三)以降は、町人城下以外に住み家を建築する際には、柾屋根にすることが禁止された(「国日記」寛保三年八月十六日条)。