元禄八年の大凶作のため農民は楮仕立てどころでなく、楮畑は荒廃し御用紙を漉くのにも差し支える状態になった。同十三年九月、喜兵衛は楮不足の対策を申し立てた。それには、代官町後ろから猫右衛門(ねこえもん)町(現市内松森町)の後ろ、小比内(さんぴない)街道から高崎近所までの畑四五町歩余は風当たりも弱く、楮仕立てに適しているので開発を仰せ付けられたい、同時に作人二〇人の住む楮町を取り立てたいなど申し述べている。弟子どもは、楮がないので御家中町などのほか方々を回って反古を買い集め、漉き直しをして渡世しているとも述べている。まず、一八町九反歩を楮畑にし、次いで作人屋敷二〇軒の楮町を取り立てることになった。
翌十四年(一七〇一)、雪消えとともに畑・屋敷の打ち分けが行われた。翌年一二町歩が追加になり、都合三一町歩余の楮畑を耕作する二〇軒の作人が住む楮町が誕生した。
作人一人に一町五反歩の畑が貸与された。紙漉町名主喜兵衛が楮町名主を兼務した。畑作物の間に一反歩に付き楮三〇株を仕立てるよう命じられた。作人の中で喜兵衛の弟子になり、松森町裏の清水を使って農閑期に紙漉をした者もいた。それらの人々が住んでいた所が松森町裏の紙漉町と呼ばれるようになった。
正徳三年(一七一三)四月、喜兵衛は、江戸への土産にする奉書三束・小菊五束・色鼻紙五束・丈長(たけなが)奉書一束・色半切(はんきり)紙二束の漉き立てを命じられ、漉き上げた紙を六月、江戸藩邸に送った。使用した楮は、もちろん楮町産の黒楮であった。