藍染は生活衣料のほか軍衣・武具・馬具・能道具その他に広く用いられていた。軍用の一例として、「国日記」天和三年(一六八三)閏五月三日条には、足軽用羽織一〇〇〇人分の木綿地と染め賃および縫い賃などについての見積もりが一六貫七〇〇目(染めは一枚当たり染仕入物三匁、染手間賃二匁)と計算されている。同じく貞享三年(一六八六)八月十三日条には貸着物用として紺の袷三〇〇着仕立てについての記述がある。
藍は各地に栽培され、染めも一般に行われていたが、御用染屋の藍の調達は、資金を藩から拝借のうえ各村から買い集め、返済は染め代から差し引く方法がとられた。蓮花田(れんげだ)村(現西津軽郡木造(きづくり)町)七九口(一口の量は不詳)、川崎(かわさき)村(同じく木造町豊田)四〇口、その他多くの例がある。なお国藍の他領積み出しは固く禁じられていたが、他国より商人が入り込み、規制を犯して買い集め移出された結果、藍が払底し御用染に支障を生じた例も間々みられる。
藍の移入については、「国日記」延享三年(一七四六)二月二十八日条によると、国藍ではことのほか出費になり御用染物ができかねるという染屋たちの申し立てがあり、願いのとおり役銭免除のうえ、上方藍の移入が認められた。また明和九年(一七七二)には、阿波国(あわのくに)(現徳島県)から染師を招き、阿波藍の植え付け、仕立て、藍玉(藍の葉を搗(つ)いて発酵させ、臼でひき乾燥し固めた染料)の製法についての指南に当たらせるなど、阿波藍の導入を図ったため、安永七年(一七七八)ころになってしだいに阿波藍同様のものができるようになり、絹布染めにもよく他国藍不要というほどになっていた。
「(今泉)御用留」(弘図岩)嘉永二年(一八四九)七月十二日条によると、文政年間(一八一八~一八二九)国藍で葉藍(刈りとった藍の葉を乾燥したのち切りきざんだ藍染の原料)の生産に当たらせてきたが、普及は今一つの状態が続いていた。そこで縮藍(ちぢみあい)の種子を移入して栽培させたところ格別藍の出来が良く、年々植え付けが増加し移入が減少、国益にも資する状況になっていた。