焼成は普通四月ころから降雪期前の九月ころにかけて行われていた。延宝八年(一六八〇)四月三日、四代藩主信政の九月帰国を控え、本城(本丸)に新築する金蔵(三間〈約五・四メートル〉、七間〈約一二・七メートル〉)を国瓦で葺くために、建築の作業日程を考えて焼成させるとの記述(焼成についての初見)があるが、数量については明らかでない。また元禄十二年(一六九九)四月二十七日の普請奉行の申し立てでは、明日、土器町(瓦ヶ町とも)瓦屋で瓦を焼成するとしていて、焼成場所を明記しているのはこの一件だけである。また火煙が立ちのぼることについてあらかじめ火消番頭や物頭へも連絡をとっているのは、火災との誤解を避け、火の粉等による火災発生の危険に備えてのことであろう。
瓦は必要に応じて焼成されたが、瓦の耐用年数を考慮すると、毎年作る必要はなく、貯蔵分や移入瓦による需給調整がなされていた。年間の焼成枚数は、瓦細工所の規模やその年の需要および焼成回数等によって一様ではなく、数千から五、六万枚にわたっている。
瓦ヶ町での焼成は享保年間(一七一六~一七三五)からしだいにとだえていった。それまでの瓦葺きが銅瓦葺き(この場合の銅瓦とは、木を瓦に形どり〈木瓦〉、これを銅板で覆ったもの)に代えられていったためである。降雪地では瓦に雨水が浸透したあと、厳寒期に入ると凍結して破損しやすくなるために、補充や修復に費用がかさむなど、経済的理由に基づくものであった。銅瓦は最初に費用が多くかかるものの、補修や保守・管理の費用を軽減できた。
瓦用粘土は代官町(だいかんちょう)(現市内代官町)東方の土取場や和徳(わとく)村(現市内和徳)の田から採取された。なお埋蔵量の減少に伴い、和徳の別の畑地および南溜池南方(現市内清水富田)の堤や猫右衛門町(ねこえもんまち)(現市内松森町(まつもりまち))にある紙漉喜兵衛預かりの畑地など、遠方にも適土を求めていた。
燃料には岩木川の流木が多く使用されていたほか、悪戸村(現市内悪戸)の松山や湯口(ゆぐち)(現中津軽郡相馬村)黒瀧山等の松材が使用されていた。松材は炎の延びが良いので焼成には最適とされている(現在も登り窯等ではよく使われている)。