江戸中期の漆工芸

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元禄に入ると、漆工品名・図柄・技法などについても記録されるようになる。
 たとえば元禄二年(一六八九)には、蒔絵で飾られた箱枕、香料を入れる香合(こうごう)、香を炊く香炉、丁子(ちょうじ)・麝香(じゃこう)・白檀(びゃくだん)などを入れておく香箱などが使され、塗師はこれらの漆器に付いた傷の修理依頼を受けている(資料近世2No.三四〇)。また同四年には春慶塗の重箱、同五年には黒塗蒔絵を加飾した漆器、縁に金粉を蒔いた盆の内側には、牡丹の折れ枝の図をしおらしく平蒔絵で仕上げることを望まれている(同前No.三四一・三四二)。さらにこの年に、初めて変わり塗・唐塗(からぬり)が出現した(資料近世2No.三四二)。
 やがて生活に密着したたばこ入れやたばこ盆も盛んに塗られ、それが多くの人の目に触れるようになると、塗師の中には技術改善の必要を感じ、江戸で流行している変わり塗技法を試みようとする機運が生じてきた。「国日記」元禄十三年(一七〇〇)十一月十八日条には大野山六郎左衛門は手板(ていた)を製作するために、本朱(ほんしゅ)・青漆(せいしつ)・雌黄(しおう)などの顔料(がんりょう)のほかに、砥の粉(とのこ)、地の粉(じのこ)および吉野紙と施設の改善を求めたことが記録されている。赤・青・黄の着色材料は、変わり塗を行うには必要であるが、これまであまり使われていなかった材料である。また手板は塗見本の小板であると同時に試験板であるから、これらを要求していることを考え合わせると、技術改良を意図したことは明らかである。さらに実験を行うために、四坪の細工所の薄縁を厚畳に敷き換えほこりを防ぐとともに、漆器を乾燥させるために風呂を設置するなど、施設・設備の改善も行ったのである(同前No.三四三)。
 このように津軽の漆工芸は、改善しようとする機運と、源太郎の帰藩を契機に新しい展開をみることになった。