文化五年(一八〇八)、若狭について書いた『稚狭考(わかさこう)』(福井県立図書館『拾椎雑話(じゅうしいざつわ)・稚狭考』一九五四年)がある。その第七製造商売の章に、「海底塗は津軽で生産され、津軽塗ともいう。法貴伝兵衛が塗ったものである。若狭塗は、もともと海底を意図して塗り、研いで仕上げたものである。松浦三十郎は、これから暗示を得て菊塵塗を創造した。若狭塗の元祖である。松浦氏は絶えてしまい、同じ塗り技法を行う西脇氏など数軒が城下において若狭塗を職業としている。若狭塗は、各地に知れわたり、有名になっている。」と書かれ津軽でも海底塗が塗られ、これを伝兵衛が塗っている。
若狭塗の元祖松浦三十郎が最後に記録されたのは、『拾椎雑話』の元文二年(一七三七)であり、宝暦七年(一七五七)には、名がみえていない。このことから、津軽において享保五年(一七二〇)ころから盛んに作られた唐塗の文様とは海底塗の技法と関係深い渦巻文様と思われる。
津軽の古い唐塗と同様の文様・磯草塗の技法は、粘度の高い絞漆を塗った濡れ塗膜の上に、芯棒がついた円板を置き、この芯棒を指で軽く握り独楽(こま)をまわす要領で、中心を少しずつ移動させながら左右交互に回転させる。そうすると左へ右へと渦巻くような感じの渦巻文様がとぎれた細線で描かれ、その渦の中に、しずくのような大小さまざまな点々が描かれる。この技法で形成された文様は、天保四年(一八三三)に書写された『塗物伝書』(佐藤武司『日本農書全集』五三 一九九八年 農村漁村文化協会刊)の中の唐塗仕様と関連深い。つまり『生漆(きうるし)へ水を混ぜ、十五日程乾燥させて粘度を大きくし、粘度が増さない場合には唐の土(とうのつち)(塩基性炭酸鉛)を加えて調整する。この漆を器物に塗り、その上を、漆を漉(こ)すのに使った吉野紙(吉野で漉されたこうぞ和紙)を丸めたもので、唐模様を描く。一日乾燥させ、漆をうすく塗り、さらに青漆と黄漆を塗り、乾燥後に朴(ほお)の木炭で平滑に研ぎ、鹿の角(つの)を蒸し焼きにした角粉(つのこ)と油を指につけて磨く」(同前)というものである。円盤や丸めた紙をひねって描かれる移動跡は、海底の図を模した若狭塗や津軽の法貴伝兵衛が塗った海底塗の技法と同様と思われ、現在でも渦巻文様は山形県酒田市の磯草塗にみることができる。
図154.芯棒が付いた円板の移動でできた磯草塗りの文様
図155.漆漉しに使った吉野紙や布を丸めたものをひねって描いた江戸時代の津軽塗の文様