漆工技術の面では、年代を重ねることで蒔絵や変わり塗の技法が上達・進歩し、美術的な漆工品の製作が可能になっていたのに対し、津軽で製作された漆器は、地味であるとか、暗い感じがする、といわれることがある。二代目源兵衛が弘前に帰って間もないころの藩の政策は、優美な漆工品の製作を抑制する方向に動いていた。武士の日常生活が華美に流れる傾向にあったとみえ、正徳元年(一七一一)の法令では、粗衣粗服を用いることを命じ、遊びの会合を禁じ、さらに器物の類は黒塗を使用し、蒔絵の類は堅く禁ずると漆器についての規制が書かれている(「国日記」正徳元年八月二十六日条)。そのため津軽の塗師たちは、限られた条件の中で漆器を作らなければならなかった。その中から創造されたのが赤・青・黄などの色漆を使用し、汚れや傷の目立たない唐塗であり、黒一色だけでも、反射光の違いによって美しさを表現できる紋紗塗(もんしゃぬり)(いじいじ塗)、小さい輪文(わもん)で重厚さが生まれる魚子(ななこ)塗などである。
これらの漆器には、時代の流れに合うものを作ろうとした創作意欲や創造性が感じられ、その技法には塗師たちの知恵が認められる。蒔絵から変わり塗への移行、芸術的であるよりも実用的、個性的な漆器が生まれた要因の一つは、このような津軽の社会的制約にあった。
やがて宝暦八年(一七五八)の『津軽見聞記』(『来遊諸家紀行集』青森県叢書第三編 一九五二年 青森県叢書刊行会刊)に、「弘前一流の塗物あり、から塗という。(中略)塗師三人あり。銘々流儀ありて少しずつの違いあり、就中、青海屋源兵衛を上手とす。本家にて青海塗をよくす」と書かれるまでに発達したもので、唐塗や青海波塗などの技法は津軽における漆工芸の代名詞となっている。