袋宮寺(たいぐうじ)は為信が守護神としたが衰え、如来瀬村(現中津軽郡岩木町)の朝日という巫(かんなぎ)が
熊野三所大権現の本地仏を袋に入れて背負い歩
いたことから袋宮(ふくろのみや)と呼ばれた。巫女朝日の子孫が森下を姓とし、社司を務めた(資料近世2No.四〇七)。信枚が夢にみて再興し、
別当袋宮寺を置き、三〇石を寄進したという。信義は
別当慶覚の
祈祷により男子(信政)が誕生したので二〇石を寄進し、合わせて五〇石とした(同前No.四〇七)。
明治二年(一八六九)、
別当職が廃止となり、そのまま社内に
寺院を置くことが不都合になり、
報恩寺境内の
十一面観音堂無量院へ合併した。
図210.袋宮寺十一面観音像
図211.袋宮寺跡熊野宮