誓願寺

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誓願寺(せいがんじ)の創建を「津軽一統志」は慶長元年(一五九六)とするが、「山崎専称寺並末寺由緒記」は同十九年に岌禎隠居所として建立したとする。「浄土宗諸寺院縁起」は、信枚が慶長十四年、寺領三〇石を寄進したとするが、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」はこれを慶長年間(一五九六~一六一四)とする。慶長十九年(一六一四)の隠居と、同十四年の寺領の寄進に矛盾があるが、ここではいずれも慶長のころとみたい。信枚は、元和元年(一六一五)、京都誓願寺を模して、大仏を京都から運び、仮本堂に安置した。同四年に岌禎が死去し、二世良将によって寛永元年(一六二四)に開眼供養が行われた。この時、領内一軒に一銭の奉加が認められた(資料近世2No.四〇八)。ところがこの大仏は貞享五年(一六八八)に誓願寺が焼失した時に失われたものとみられる(「国日記」貞享五年三月十九日条、『永禄日記』、「封内事実秘苑」)。
 その後、道心蓮池が丈六の阿弥陀仏の建立を藩へ願い出て、領内人別五銭の奉加が認められ、宝永四年(一七〇七)に開眼供養が行われた(「国日記」宝永四年十一月十五日条)。この阿弥陀仏も延享四年(一七四七)に焼失した(同前延享四年九月二十一日条)。鶴亀門と呼ばれる山門は、江戸中期の建築物とみられる。