山田秀典県令の「県治状況報告書」に開牧社の開業の事項が記されていたが、これは内務省から起業基金の提供を受けて可能になった牧畜事業であり、士族六一二人が関係する大規模なものであり、明治十二年(一八七九)に三万五〇〇〇円を一五年据え置き、二〇ヵ年賦の返済の条件で借用して事業を行うものであった。
このほか、牧畜、開墾、樹林を目的とする士族授産結社に農牧社があった。同社は明治十四年(一八八一)二月に笹森儀助が中心になり、創立したものである。笹森と、同じく旧弘前藩士族の大道寺繁禎は、起業のための補助金を申請した。その結果、同年十二月に、五ヵ年据え置き、一〇ヵ年賦返済の条件で認められ、翌十五年五月に開業した。
農牧社が開かれた常盤野の地は、藩政時代に創設された馬牧場の所在地であって、良馬を産してきたが、天保年間に凶荒に遭い、廃場された場所であった。場所の決定に当たっては、山田県令らが巡視している(『農牧社沿革記事』弘前市役所所蔵)。農牧社の組織は、社長大道寺繁禎、副社長笹森儀助、牧佃掛中畑清八郎、会計掛芹川高正、監督長尾介一郎、菊池九郎であり、このほかに牧佃掛と会計掛の附属員が各一人いた。
開業後、順次、牛馬をそろえ、農具を購入して準備を整え、牧場事業を開始した。集めた牛馬の中には、県庁から借りた洋種牡馬や、北海道で購入した洋種牡牛などがあった。
開業後の農牧社には、農商務省農務局長の田中芳男らが来場して視察するなど、中央政府から援助を受け、また、県の保護も厚く、その経営を伸長させていった。
明治政府の資金援助を受けて設立された士族授産結社には、他に、明治十六年(一八八三)に一万円の勧業資金貸与を受けて綿布製織を目的とした弘前興業織物工場、明治十七年に五〇〇〇円の貸与を受けて漆器製造を目的とした漆器樹産会社、同年に五〇〇〇円の貸与を受け、養蚕製糸を目的とした盛蚕社があった。