電信事業

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わが国の通信運輸の近代化は、まず明治二年(一八六九)に電信が開通し(東京・横浜間)、次いで明治四年(一八七一)に郵便(東京・京都・大阪間)、そして明治五年に鉄道の開通(新橋・横浜間)という順でその歩みを始めた。電信事業は工部省が管掌し、各地に電信局が設けられた。
 本県の電信事業は、明治八年(一八七五)三月二十五日に青森市に器械五六台を設置したことに始まる。明治五年九月、東京の浅草電信局を起点に、宇都宮・白河・福島・仙台を経て、陸奥湾に面する青森県今別に至る約八二五キロメートルの東京・青森間の電信線架設工事が東京・青森双方から同時に着手された。明治七年十月に、東京・青森間の電信線の架設が終わり、また、同時に、北海道開拓使によって進められてきた今別から函館に至る津軽海峡の海底電線工事が竣工したことにより、ほぼ日本列島を縦貫する電信幹線が出来上がった。明治八年から十年にかけての幹線の改修工事後は、支線架設工事が盛んに行われるようになった。明治十二年十一月二十日に八戸分局が開局、明治十三年(一八八〇)には青森・弘前間(一線)の架設工事が終わり、同年八月十五日に弘前分局が開局した(資料近・現代1No.二〇六)。
第一六号
高知県下高知電信分局ヨリ同県下須崎山形県下酒田電信分局ヨリ同県下鶴ヶ岡青森県下青森電信分局ヨリ同県下弘前ヘ電線架設右三所ヘ分局ヲ設置シ来ル八月十五日ヨリ開局音信料ノ儀左ノ通ニ候条此旨布達候事
  明治十三年七月二十四日
     工部卿 山尾庸三
一 須崎分局ヨリ隣局松山及高知ヘノ和文一音信料金七銭欧文ハ金二十五銭ヲ払フヘシ
一 四国中其他岡山以東以西各分局ヨリ須崎ヘノ和欧文音信料ハ高知ト同シ
一 鶴ヶ岡分局ヨリ隣局酒田ヘノ和文一音信料ハ金七銭欧文ハ金二十五銭ヲ払フヘシ
一 東京其他各分局ヨリ鶴ヶ岡ヘノ和文料金ハ酒田マテノ料金ニ金二銭ヲ加ヘ欧文ハ金二十五銭ヲ加フヘシ
一 弘前分局ヨリ隣局青森ヘノ和文一音信料ハ金七銭欧文ハ金二十五銭ヲ払フヘシ
一 東京其他各分局ヨリ弘前ヘノ和文料金ハ青森ノ料金ニ金二銭ヲ加ヘ欧文ハ金二十五銭ヲ加フヘシ

 翌年の十一月には秋田・弘前間(二線)の架線が完成し、これによって東北地方の日本海側の電線が全通することになるのだが、明治天皇東北巡幸に間に合わせるための突貫工事であった。当時は、自由民権運動の高揚に伴い、電信事業が治安対策上の有力な手段として見なされ、普及していったのである。さらに明治十七年には青森・弘前両分局間に一線を増架し、これを秋田・弘前分局間の既設予備線に接続し、青森・秋田間は直通二線となった。
 明治十八年には逓信省の創設により工部省は廃止され、電報業務は郵便局が取り扱うようになり、明治二十四年に弘前電信局は郵便局と合併し、三等の郵便電信局となった。

写真25 明治40年代の電話交換室