開業時の状況

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開業当初、第五十九国立銀行の営業は容易でなかった。明治十二年(一八七九)二月二十八日、大道寺頭取と松野取締役は渋沢栄一宛に業務不振の悩みを書き送っている。その内容は、開業後一ヵ月余り過ぎたものの、営業は閑散で資金の運用は思うにまかせないため、利益配当は期待できない。これを打開するため、実価五万円程度の金禄公債証書の買い入れを考えている。営業不振の原因は、新銀行制度に対する知識がいまだ庶民へ普及していないため銀行利用者が少ないこと。三井組の三井銀行青森県に進出して官金取扱業務を掌握し、後発である第五十九国立銀行の取引範囲がきわめて限定されたこと。また、大蔵省からの銀行紙幣交付が四月下旬まで遅れたため運用資金の不足を来しているとのことにあるという。これに対して渋沢は、相場変動の激しい公債証書の買い入れはせず、銀行業の本業である為替取引に専念すべきであると返書している。また、銀行紙幣の交付については第一国立銀行が大蔵省に懇請しているという内容であった。
 待望の銀行紙幣は四月から交付され、五月二十七日までに資本金の八〇%に当たる一六万円が分割交付された。この銀行紙幣は明治十六年の国立銀行条例の改正にもとづき漸次償却されることになるが、それ以外は市場に流通した。なお、官公金の取扱いについてはこれまで三井銀行青森県為替方として独占していたが、第五十九国立銀行は開業前から県下各大区長へ依頼していたため、十一年十二月には中津軽郡役所、翌十二年六月には東津軽郡・西津軽郡役所の収税金の取扱いが許可されることになった。配当は、明治十二年下期が一二%で、それ以降十九年までが一四~一六%であった。開業から明治期前半は、開業時の困難を乗り越え、折からの好況を背景に業況の進展を見せた時期であった(前掲『青森銀行史』)。

写真30 第五十九銀行設立当時の発行紙幣