明治十七年、民権を代表する自由、改進二大政党は崩壊し、弘前でも民権派の拠点の東奥共同会が十六年五月解散した。弘前に残る政社は壮士的な東洋回天社のみで、県全般でも南津軽郡の自由党系益友会と帝政党系の経世会の対抗が目立つぐらいに政党は沈静化した。
これは、政府の集会条例による厳重な取り締まりや弾圧もあるが、帝国議会の開会が明治二十三年と決まり、憲法も制定作業中だから、今政治運動するのは空論虚議にすぎない、そのために産を失うは無益の業であるという政治に倦んだ気分が生じたからである。それに、明治十四年から始まった松方財政による大不況で、町でも村でも多くの人々の生活が破綻し、また、没落し、一方、商業・金融業に進出する大地主が町村に生まれ、これまでの士族がリードした政治運動は衰退した。しかし、明治二十一年の後藤象二郎の青森県遊説は、弘前の紛紜や生活難にうちひしがれ、政治的活力を失っていた青森県民に強いカンフル剤となった。
後藤の大同団結運動は、帝国議会開設を前に反政府諸勢力を結集し、議会の多数を占める政党を結成しようとした政治運動である。第一期は明治十九年十月二十四日、旧自由党の有志が東京浅草井生村楼に全国有志の大懇親会を開いたことに発する。星亨、中江兆民、末廣重恭ら会するもの二百余人、自由・改進両党いずれも旧怨を捨てて一致協力、国会開設に備うべきを誓った。
一方、政府は、明治十六年、内外人交歓の社交クラブとして鹿鳴館を建てて東京倶楽部をつくり、西欧風俗模倣の欧化主義の時代を現出した。二十年に入るや政府の饗宴舞踏会はますます盛んに行われ、四月二十日夜、伊藤首相官邸で行われたファンシー・ボールはその典型代表であって、のちのちの語り草となった。かかる時、欧州から帰朝した谷干城農商務大臣は、政府に対してその政略、条約改正その他万般にわたって意見書を提出したが容(い)れられず、七月二十六日辞職、このほかに勝安房から時弊二一ヶ条の建白(五月)、ボアソナード(フランスの法学者。当時の日本政府顧問)から井上外相の条約改正案批判の意見書が出され、秘密出版により頒布されて政府攻撃の機運が沸き上がってきた。そして、八月には板垣退助が封事(意見書)を天皇に出し、諸県の有志も上京して首相・外相らに面会を求めて、条約改正中止、言論取締法令改正などについて建言続出、物情騒然となった。井上外相は九月十七日辞任に追い込まれ、運動は一転して藩閥政府攻撃となった。スローガンは地租軽減、言論集会の自由、外交策の挽回の三つである。