津軽地域の農民組織は、官制に頼らない自発的・自立的な団体として発展した特徴を有するが、全国的には明治三十二年(一八九九)六月の農会法の公布によって組織された農会が、農政の下請け機関として機能した。農会は、「興業意見」の前田正名の指導の下に全国の老農を結集させた明治二十七年の第一回全国農事大会の成果と農事改良運動に支えられて設立された。青森県では農会法公布以前の同二十六年に青森県農会が設立されているが、役所内に事務局が置かれる程度で実質的な活動は見られなかった。
ようやく明治三十年代後半に入って、中津軽郡では一六ヵ村全部に農会が設置され(「中津軽郡清水村農会規則議案」、弘前市立図書館蔵八木橋文庫)、農事指導奨励の機関として技術員の設置や会費の徴収が行われた。同四十年代に入り、物産品評会が熱心に取り組まれた。
弘前市及び中津軽郡の物産品評会は津軽産業会が開催してきたが、「農産物の出品が期待通りの数には達しなかった」ことを理由として、明治四十一年(一九〇八)十月、中津軽郡農会による第一回物産品評会が開催された。出品種類は、中津軽郡で生産された産物として、農産は米・粟・蕎麦(そば)・麦・豆・蕓臺(うんだい)(油菜)・果実・繭・苗木・蔬菜・牧草、工産は生糸・真綿・畳表・竹蔓細工・醸造物・味噌・澱粉饂飩(うどん)素麺・藁細工、林産は板・柾・木炭・干紫蕨(わらび)・干蕨が対象となり、他に参考品として、生産地を問わない産物も出品できることとし、多数の物産品を取り扱った(「中津軽郡農会立第一回物産品評会」、資料近・現代1No.四一四)。
第二回は翌四十二年(一九〇九)十月に開催された。当時の各村ごとの出品点数は、清水三〇八、和徳二四三、豊田一一九、堀越一九四、千年一一九、相馬一三八、東目屋一一一、西目屋一五八、岩木一五〇、大浦二六二、船沢一七五、駒越一七四、高杉一二六、藤代一九二、新和一七一、裾野一一九、合計二七五九であった。
受賞者のうち、一等賞は、米-成田七太郎(大浦村)・小堀章六(堀越村)、稲-木村要作(豊田村)・木村長五郎(同)、大豆-清野長二郎(清水村)、株大豆-象潟皓一(高杉村)、馬鈴薯(ばれいしょ)-小田桐豊太郎(和徳村)、林檎-三上喜太郎(清水村)・田村金作(同)・工藤銀次郎(同)・玉田多作(駒越村)、榲悖(まるめろ)-藤田常正(駒越村)、葡萄-藤田葡萄園(堀越村)、林檎苗木-楠美冬次郎(清水村)、畳表-舘山三次郎(堀越村)、木通(あけび)蔓細工-熊嶋蔓細工購買販売組合(大浦村)・古川喜太郎(同)・齊藤三之助(同)、藁細工-長谷川蔵吉(大浦村)・工藤東吉(和徳村)である(「第二回中津軽郡物産品評会授賞人名」、資料近・現代1No.四一五)。
第三回は同四十三年(一九一〇)十月に開催された。当時の各村ごとの出品点数は、清水一七六、和徳一二八、豊田一二二、堀越九九、千年八九、相馬九三、東目屋八八、西目屋一四七、岩木一一六、大浦二三六、船沢一一三、駒越一一三、高杉九六、藤代一六五、新和一五八、裾野七五の合計二〇一四。五日間の参観人員は一万一二四三人と盛況であった(「第三回中津軽郡物産品評会受賞人名」、資料近・現代1No.四一六)。
町村農会は、各町村から補助金を受けながら、事業として立毛(たちげ)品評会、農事視察、害虫駆除、堆肥舎建設、種子塩水選、蔬菜種子購入、肥料共同購入補助、果樹栽培奨励などを行った。