城跡の荒廃

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旧藩の政庁であった弘前城は、明治四年七月の廃藩とともにその機能を失った。旧藩主にして知藩事津軽承昭はすでに東京に移住していたので、主(あるじ)なき荒城となってしまった。そして九月に城地は兵部省の管轄に入り、十月には東北鎮台の分営として旧藩士から募集した二〇番隊が城内に駐留するのみとなった。
 十一月になって、明治政府は、旧大名の城郭を全国的に取り壊すことにした。しかし、弘前藩は維新の際勤王派に属したために、処置も穏やかで、本丸と武芸所を取り壊しただけで、城門や矢倉(櫓)などはそのまま旧態を残すことになった。写真120は明治五年に親方町の西谷休之助が撮影したもので、天守閣に続いて石垣の上に土塀が連なり、また、下乗橋を渡った左手に武者御門のあったのが見える。

写真120 天守閣付近(明治5年)

 明治初年の城地には、東洋回天社を唱える若者たちが、これを借り受け、番人を気取っていたという記録もあるが(第一章第三節第四項参照)、東西六町・南北八町にわたる広大な城地が、しだいに荒廃していくのを惜しんで、それを新たに活用するために、明治七年ごろから果樹栽培のため城内を借用したいと申し出る者があった。これに関連して下沢保躬の『事実見聞抄』(明治五年から十六年までの雑記)に、そのころ個人に貸し付けた記事が見えて、新谷平太郎は二の丸馬場跡の桑の木四九三株のある土地を拝借、また、四の郭北側の漆木のある地面は佐藤真雄が拝借したことがあり、明治十七年には種牧場を設けたいと請願をした者もあった。
 なお、同書に当時城内にあった樹木の調べがあるので挙げてみよう。
  松 三七五五本  杉 一三五二本  檜 三五六本  椵(か)(トドマツ)四一本  漆 八九五本
  雑木 一一三六本  合計 七五三五本
 このほか果実生木には、
  栗 四九本  柿 六本  林檎 二本  欅 四六本  梨 一九本  銀杏 六本  梅 二五本
  木瓜 一七本 胡桃 四三本
 まだは植えられていない時代であったが、これによれば随所に鬱然とした樹林が見られたのがわかる。中に林檎とあるのはいわゆる地林檎であろう。また、城内の雑草は、小比内村、外崎村など三ヵ村で人夫二一五人をもって刈り取ることを願い出ている。は、明治十三年に内山覚弥が三の丸へ二〇本、十五年に菊池楯衛が一〇〇〇本を西の郭と二の丸に植えたのが始まりで、当時のものは、現在、二の丸の東内門前に一本だけが残っている。