碑は約九尺の自然石にして台石と合して丈余、孫文の筆刻文は左のとおりである。
写真136 山田良政の顕彰碑
式では宮崎滔天が発起人代表の挨拶をし、孫文と唐紹儀の祭文を陳中孚(ちんちゅうふ)が代読、犬養毅の祭文を佐藤要一が代読した。出席者は遺族、親族のほかに菊池良一(従兄弟)、伊東重、鳴海文四郎代議士、石郷岡弘前市長、武田東奥日報社社長、丸瀬市会議長、長尾前市長、藤田重太郎県議など地方有志者約一〇〇名だった。
弟の純三郎(明治九-昭和三五 一八七六-一九六〇)は兄の志を継いで中国に渡り、孫文の知遇を得、蒋介石とも親しく交わった。上海同文書院教授となり、民国日報、上海江南晩放社長となった。中国に滞在すること五〇年、「老上海」の名で日中両国人の敬愛を受けた。貞昌寺には兄の碑と並んで石碑が建立され、蒋介石の書で「永懐国義」(永遠に君の真心は忘れない)と題し何応欽(かおうきん)の撰文並びに書が刻されている。
太平洋戦争後、日中国交回復に努力した中国の廖承志(りょうしょうし)は、山田良政の葬儀に孫文代理で来弘した廖仲愷(りょうちゅうがい)の子である。碑建立のとき承志も弘前へ来ている。仲愷は孫文の死の直後暗殺された。