民次郎を継ぐ心

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西根(岩木川の西側一帯を指す)の村々の指導者たちが、ここまで深く民次郎一揆に心を寄せたのは、きっかけは大正二年の大凶作と百年忌があったからであるが、地域には百年経ても有為転変を経た関係者の子孫が住んでおり、一揆をめぐるもろもろの事実が生々しく記憶に生きていた。岩木山麓の原野は津軽の村々の入会地・草刈場で、祭礼の交流もあり、各地の情報も広く行き渡っていた。しかし、顕彰は敗戦後までできなかった。
 発起人の一人藤田重太郎は、この趣意書が出されたとき高杉村長で、憲政擁護運動中津軽郡の中心人物でもあり、憲政会に属して県議五期で議長も務めた。その後、昭和五年(一九三〇)には弘前に産業組合津軽資生療院(七年に津軽病院と改称)をつくり、農民の指導者として第一次世界大戦中活躍した。しかし、明治の政治家たち、憲政擁護運動の旗手を務めた菊池武徳の視野にも、自派の勢力拡大に鎬(しのぎ)を削った弘前市議の視野にも、津軽の一寒村の民次郎のことなどさらになく、逆に一揆に心を寄せるなどは五年前のそら恐ろしい大逆事件(明治四十三年)と重なる。近代史のいう大正デモクラシーの初発は、まだ東京と政党政治家たちの離合集散の段階であった。しかし、地元の人々は民次郎を義民と呼び、津軽の佐倉宗五郎と讃えた。

写真143 農村の医療貧困のため創設された津軽資生療院
(写真は昭和7年頃昭和33年に市営化)