……そのころ中学をやめてしまって。黒旗事件というのはたしかに我々にショックであったわけですよ。我々中学生には……。その北部無産社に変ったやつがいるというわけで、一ついってみるかということになり、いってみたわけですよ。弘前の御幸町です。そこに長屋があるんですよ。僕の家から歩いて五分程度で行けるところだった。
いってみるとなるほど「北部無産社」という看板をかけていた。障子をあけたら髪の長い人間が三人もいて、動天してしまったわけですよ。(中略)瀬尾君ともう一人唐牛君とかいう人たちがせっせと位牌をこしらえていた。瀬尾君は仏具師だった。大沢先生は無職だったけれども……。
写真151 創立当時のメンバーと北部無産社(富田新町)
北部無産社は、中央の雑誌、パンフレットの配布網であった。堀江はここから堺利彦、荒畑寒村、山川均らの作品や雑誌を中学校の旧友にばらまいて歩いた。そしてみずからレーニンの弟子をもって任じた。この北部無産社は、相次ぐ弾圧によって二年ほどで自然解散になったが、ここに出入りしていた官立弘高生伊藤徳三によって、官立弘高に社会科学研究会が大正十二年十一月創設された。彼は河上肇の唯物史観を広め、レーニンの『国家と革命』を自分で翻訳して回覧させた。北部無産社のメンバーも彼に啓発された。やがて弘高社研のメンバーは三〇〇人を超え、寮制の自治民主化を図り、評議員制度を確立させた。彼の後を継いだ田中清玄のころは、全校の三分の二の学生を組織し、解散を命ぜられた。その後、昭和五年、六年と弾圧が続き、六年二月八日からは「弘高弾圧分子検挙」が相次ぎ、「弘高二・七事件」が起きた。弘高生津島修治(のちの太宰治)がペンネーム辻島衆治で編集した文芸誌『細胞文藝』は昭和三年四月に創刊されている。
写真152 プロレタリア文学の影響の強い『細胞文藝』創刊号
いってみるとなるほど「北部無産社」という看板をかけていた。障子をあけたら髪の長い人間が三人もいて、動天してしまったわけですよ。(中略)瀬尾君ともう一人唐牛君とかいう人たちがせっせと位牌をこしらえていた。瀬尾君は仏具師だった。大沢先生は無職だったけれども……。
写真151 創立当時のメンバーと北部無産社(富田新町)
北部無産社は、中央の雑誌、パンフレットの配布網であった。堀江はここから堺利彦、荒畑寒村、山川均らの作品や雑誌を中学校の旧友にばらまいて歩いた。そしてみずからレーニンの弟子をもって任じた。この北部無産社は、相次ぐ弾圧によって二年ほどで自然解散になったが、ここに出入りしていた官立弘高生伊藤徳三によって、官立弘高に社会科学研究会が大正十二年十一月創設された。彼は河上肇の唯物史観を広め、レーニンの『国家と革命』を自分で翻訳して回覧させた。北部無産社のメンバーも彼に啓発された。やがて弘高社研のメンバーは三〇〇人を超え、寮制の自治民主化を図り、評議員制度を確立させた。彼の後を継いだ田中清玄のころは、全校の三分の二の学生を組織し、解散を命ぜられた。その後、昭和五年、六年と弾圧が続き、六年二月八日からは「弘高弾圧分子検挙」が相次ぎ、「弘高二・七事件」が起きた。弘高生津島修治(のちの太宰治)がペンネーム辻島衆治で編集した文芸誌『細胞文藝』は昭和三年四月に創刊されている。
写真152 プロレタリア文学の影響の強い『細胞文藝』創刊号