北部無産社

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野呂衛は、和徳村の地主の子で、弘前中学、法政大学を卒業、幸徳秋水大杉栄の無政府主義を信じていた。このころは黒旗のアナーキストと赤旗のボルシェビキ(共産主義者)が同居しており、弘前で北部無産社が結成されたばかりだった。のちに本県労働運動の指導者になる堀江彦蔵が、前出の黒旗事件で有名になった同社を訪ねた記録がある。堀江は、洋風建築で名高い堀江佐吉の子だが、藤田謙一弘前市公会堂の建築を請け負って仮借(かしゃく)ない藤田の契約絶対主義のため家産を傾けてしまった。そのため、県立弘前中学を三年で中退した。このときの藤田謙一に資本家の本質を見、労働運動に走ったと後年述懐していた。ともあれ、堀江は次のように当時を思い出している。
 ……そのころ中学をやめてしまって。黒旗事件というのはたしかに我々にショックであったわけですよ。我々中学生には……。その北部無産社に変ったやつがいるというわけで、一ついってみるかということになり、いってみたわけですよ。弘前の御幸町です。そこに長屋があるんですよ。僕の家から歩いて五分程度で行けるところだった。
 いってみるとなるほど「北部無産社」という看板をかけていた。障子をあけたら髪の長い人間が三人もいて、動天してしまったわけですよ。(中略)瀬尾君ともう一人唐牛君とかいう人たちがせっせと位牌をこしらえていた。瀬尾君は仏具師だった。大沢先生は無職だったけれども……。
(前掲『青森県労働運動史』第一巻)


写真151 創立当時のメンバーと北部無産社(富田新町)

 北部無産社は、中央の雑誌、パンフレットの配布網であった。堀江はここから堺利彦荒畑寒村山川均らの作品や雑誌を中学校の旧友にばらまいて歩いた。そしてみずからレーニンの弟子をもって任じた。この北部無産社は、相次ぐ弾圧によって二年ほどで自然解散になったが、ここに出入りしていた官立弘高生伊藤徳三によって、官立弘高に社会科学研究会大正十二年十一月創設された。彼は河上肇の唯物史観を広め、レーニンの『国家と革命』を自分で翻訳して回覧させた。北部無産社のメンバーも彼に啓発された。やがて弘高社研のメンバーは三〇〇人を超え、寮制の自治民主化を図り、評議員制度を確立させた。彼の後を継いだ田中清玄のころは、全校の三分の二の学生を組織し、解散を命ぜられた。その後、昭和五年、六年と弾圧が続き、六年二月八日からは「弘高弾圧分子検挙」が相次ぎ、「弘高二・七事件」が起きた。弘高生津島修治(のちの太宰治)がペンネーム辻島衆治で編集した文芸誌『細胞文藝』は昭和三年四月に創刊されている。

写真152 プロレタリア文学の影響の強い『細胞文藝』創刊号