鉄道事業の伸展

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明治三十九年(一九〇六)に制定された鉄道国有法により、官設鉄道は国内の主要一七の私鉄を買収し、奥羽本線などこれまで官設鉄道と呼ばれていたものは国有鉄道となった。
 大正元年(一九一二)八月十五日に、奥羽本線川部駅を起点に黒石町に達する黒石線(国有鉄道)が開業し(資料近・現代1No.六二三)、弘前市から黒石町への交通の便がよくなった。黒石町への鉄道計画としては、明治二十九年十一月に免許状を受けた津軽鉄道があり、これは木造村から五所川原村を経て、黒石町に達する計画であったが、資本金を工面できず、明治三十二年十月に会社は解散し、実現には至らなかった。
 明治四十三年四月には、地方の交通を目的とする私設鉄道の発展を図るために軽便鉄道法が公布された。その特色を列挙すれば、軽便鉄道は規模が小さく小範囲であることから免許を受ける資格として株式会社である必要はなく、また、普通鉄道のように仮免許及び本免許の手続を必要とせず直接免許が与えられる、さらには軌間寸法が自由であり、曲線、勾配の制限も厳しくなく、線路、停車場、標識、車輌の設備も軽易で、旅客運賃額に最高制限がなかった。同法に基づき、大正七年九月二十五日には五所川原-川部間に陸奥鉄道(本社五所川原町)が開業し(資料近・現代1No.六二五)、五所川原町との交通が著しく便利になった。
 鉄道国有化以後の局地鉄道振興をねらった軽便鉄道は、その設立の要件が軽易であったため、全国各地で出願が相次ぎ、大正七年には私設鉄道指定業者が皆無となり、私設鉄道法は空文化した。そこで大正八年(一九一九)には私鉄事業の適切な監督を目的とする地方鉄道法が公布され、私設鉄道法並びに軽便鉄道法は廃止された。しかし、補助事業の継続もあって、地方鉄道法への改編以後もしばらくは民営局地鉄道の建設ブームは収まらず、大正十年には、弘前市と西目屋村を結ぶ岩木鉄道株式会社設立趣意書が、発起人の藤田謙一らによって提出された(同前No.六二八)。ただし、岩木鉄道の計画は政府から営業の免許が下りたが、仮創立事務所が東京市に置かれたため、大正十二年の関東大震災による混乱の影響を受け、敷設工事施行認可期限延期の申請が五回も提出され、結局免許は失効となった(同前No.六二九・六三〇)。
 また、大正十三年(一九二四)十二月に弘南鉄道期成同盟会が組織され、大正十五年十二月八日には鉄道省から工事認可が下りた。弘南鉄道期成同盟会趣意書には「本県南津軽郡大寺村及ヒ尾上村ヲ中心トセル一帯ノ平野ハ、本県中最モ豪腴(ゆ)ノ地ニシテ、米穀藁工品、林檎等ノ生産物ニ富ミ、人口ノ密度並ニ富裕ノ程度モ亦本県中ノ白眉タルヲ以テ、貨物ノ集散、旅客ノ来往ニ於テ一頭地ヲ抜クモノアルハ、何人モ首肯スル処ナリ。然ルニ此ノ地方ニハ未ダ完全ナル交通機関ノ設備ナキヲ以テ、貨物ノ輸送並ニ旅客ノ往来ニ於テ常ニ無用ノ時間ト労力トヲ空費シ、経済上ニ受クル損失ノ頗ル多大ナルモノアルハ吾人ノ遺憾ニ堪ヘサル処ナリ。(後略)」(弘南鉄道株式会社編『弘南鉄道四十年誌』一九六九年)と設立の理由が述べられている。大正十五年十二月一日付発行の『陸奥の友(更正第四号)』の「郷土便り」では当時の様子を次のように記している。
弘南鉄道計画 弘南鉄道株式会社建設事務所は七月一日から弘前駅前大室旅館支店の東向き一室を借受芳賀事務主任以下四五名の事務員が事務を開始している、弘前駅から発程し中郡及び南郡河南を通過し大寺本町から左折し尾上に至る延長七哩(マイル)の工事完成まで六十万円で仕遂ぐるといふ意気込で、今や工事命令を待ちつゝある。右につき芳賀氏は語る『沿道要地については四五日前から四名の事務員を派遣して買収に着手してるがおかげで中郡は勿論南郡の方も案外無事平穏に解決がつく模様である、列車の重要なる器具機械の中機関車は二十五噸(トン)のもの二輌レールは六十磅(ポンド)八哩十チェーン、客車は円形ボギー三輌、貨車十五輌全部新規で東京五十嵐商会と二十一万円で購入契約済みとなっている状態である。川合と新里の中間に位する平川鉄橋は北郡五所川原町木村長吉氏と請負契約済みになっているが鉄橋は九百九フィートあって外小鉄橋四十尺か十八尺位のもの五ヶ所程ある。申請書は県庁を一両日中に出た筈で、本省から愈々工事着手命令が十一月中に到着したとせば総ての路線は全部会社直営で陸奥鉄道菅野技師主任として施行し、唯重要なる鉄橋其他をば請負契約とする考へである。鉄橋は前に申した通り請負契約にするのであるが本年冬期前に水際まで積あげ、明年融雪期後から上部の積上に着手せしむる予定で此鉄橋を中心に全部の東西連絡を取り得る。時機は明年の四月中旬と思へば間違なく、斯様の訳で昼夜兼行冬期間も不休の努力で工事を続行するとして明年八月一杯には如何なる事情困難を排除しても営業を開始したい考へである。斯うしないと沿道要地に関係せる農民の支障は大したもので沿線の高低が着手決定せん内は農民に対しては尚一年間延引する不都合が伴ない工場遂行上にも多大の支障を来す訳である、それで年内には先づ三割五分を完成し停車場三ヶ所は全部年内の事業として建設する筈である』云々

 昭和二年(一九二七)九月七日、弘前市と尾上村(現尾上町)間で開業した弘南鉄道株式会社の社長は菊池武憲で、資本金六〇万円、津軽尾上駅、平賀駅、舘田駅、新里停留場、松森停留場、弘前駅を結び一日六往復が運転された。

写真169 弘南鉄道の開通
(第1号機関車と創立の重役たち)