菊池が桜を植えたのは、やはり旧藩士で、ともに化育社を組織した仲間である内山覚弥に触発されてのことであった。内山もまた、しきりに城跡の荒廃を嘆き、明治十三年に自費で桜二〇本を三の廓に植えていたのである。菊池の試みが頓座したのを見て、内山は再び城内全域に桜を植えることを決意するに至った。
写真195 内山覚弥
まず、明治二十八年に、公園として一般公開が始まった弘前城跡に日清戦勝記念として一〇〇本の桜を寄付した。さらに、市会議員を務めた任期中、絶えず公園美化のため桜の植樹を主張し続け、この努力が実って、菊池の植栽から二〇年を経た明治三十六年、本丸・二の丸・四の廓一帯に再びソメイヨシノ一〇〇〇本の植栽が行われた。ここに、全国的な桜の名所となる基礎が築かれたのである。
大正期に入るころには、明治十五年の生き残りの桜とその後に植栽された桜が見事に開花した。さらに、外堀一帯や本丸下西濠へも数百本の桜の若木が植えられ、城内および外濠の桜は二〇〇〇本を数えるほどになっていった。なお、大正四年には、陸軍大演習が催され、弘前は空前のにぎわいを呈したが、この際天皇の行幸があったため、公園は一段と整備された。