荒城の桜

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藩政時代、弘前城内にの木は数少なかった。明治十五年(一八八二)、城内に一〇〇〇本もの苗木を植樹したのは、青森県に初めてりんごの苗木を試植したことで知られる青森りんごの開祖・菊池楯衛であった。城跡は、明治四年七月の廃藩後、主(あるじ)なき荒城という状況で、手入れがされることもなく荒廃していた。旧藩時代に山林取締役兼樹芸方であった菊池は、これを憂いて、その美観を図るため、私財を投じてソメイヨシノの苗木を購入、二の丸を中心に植樹したのである。しかし、当時は明治維新後の混乱も続き、また、士族の気風も強かった時代でもあり、「城の中にを植えて、花見酒などとはもってのほか」と折られたり抜かれたりし、成木となったのはごく少なかった。
 菊池がを植えたのは、やはり旧藩士で、ともに化育社を組織した仲間である内山覚弥に触発されてのことであった。内山もまた、しきりに城跡の荒廃を嘆き、明治十三年に自費で二〇本を三の廓に植えていたのである。菊池の試みが頓座したのを見て、内山は再び城内全域にを植えることを決意するに至った。

写真195 内山覚弥

 まず、明治二十八年に、公園として一般公開が始まった弘前城跡に日清戦勝記念として一〇〇本のを寄付した。さらに、市会議員を務めた任期中、絶えず公園美化のための植樹を主張し続け、この努力が実って、菊池の植栽から二〇年を経た明治三十六年、本丸・二の丸・四の廓一帯に再びソメイヨシノ一〇〇〇本の植栽が行われた。ここに、全国的なの名所となる基礎が築かれたのである。
 大正期に入るころには、明治十五年の生き残りのとその後に植栽されたが見事に開花した。さらに、外堀一帯や本丸下西濠へも数百本のの若木が植えられ、城内および外濠のは二〇〇〇本を数えるほどになっていった。なお、大正四年には、陸軍大演習が催され、弘前は空前のにぎわいを呈したが、この際天皇の行幸があったため、公園は一段と整備された。