大正期観桜会あれこれ

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大正期の観桜会といえば、市内の会社、官公署、近所の人々がこぞって来るのが主流で、いわば大人たちのための観桜会であった。五〇人、八〇人といった大人数が大円陣をつくり、流しの芸人を真ん中に入れ、飲めや歌えの大騒ぎとなる。隣合わせの一団と酒の上でのけんかも多かった。
 観桜会余興で人気を集めた催し物の一つに、自転車競走があった。競技場付近は、いつも四、五千の人で埋まり、一杯ひっかけながら一着を賭け合い、負けた者は一升とられたり、帰りにカフェーをもたされたりすることも多かったという。自転車競走の出場選手も張り切りすぎて、けが人も続出であった。
 園内の狂騒につられて話題を提供したのが、大正十年に開校したばかりの官立弘前高校の学生たちであった。百人余りが制服・制帽で隊列を組み、デカンショ節を歌いながら市中を練り歩き、本丸に押しかけると、めいめいデカンショ節について路上演説を始め、夜にはファイヤーストーム、酒に酔ってのけんか等と、大いにひんしゅくを買った。

写真198 官立弘前高校の学生たち

 弘前公園招魂社(現護国神社)の招魂祭は毎年四月三十日に開かれていたが、大正も末期になり、軍国調が強まるとともにいっそう盛大なものとなっていった。その前夜祭は弘前観桜会の前ぶれとなり、観桜会のため準備中の露天商なども、その夜から開店し、にぎわった。本大祭は県知事が祭主で、参集者は師団長・大湊要港部司令官・各部隊長・各学校長・国防婦人会代表・在郷軍人会代表・遺族等で、五〇〇〇人以上にもなった。一日中、代表部隊が次々と参拝するのだが、亀甲門から蹄(ひづめ)の音も高らかに行進してくる騎兵隊に人気があった。しかし、三十日の参拝が終わり、緊張が緩むと、兵隊が花見酒に酔って学生とけんかしたり、西濠の名物であった屋形船で芸者と乱痴気騒ぎということもあった。屋形船は、師団司令部が軍紀の乱れることを恐れ、また、主催者側も風紀が乱れると判断したため、大正末期には廃船となった。