大正新風俗

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大正期の風俗の特徴は、洋服の普及であった。男性の洋服が急速に普及し、とりわけ大正八年の好況時には、農村の若旦那たちの洋服新調が目立って多く、市内の洋服仕立て店では注文に追いつけないほどであったという。それに対し、女性は和服が多かったが、洋髪(束髪)が流行し、本町坂下の坂本鶴のような洋髪の美容師も現れた。なお、県立弘前高等女学校では、大正十一年四月、和服の制服を廃止し、セーラー服へ切り替え、女生徒洋装化の県内第一号となった。また、婦人洋傘が流行し、大正十年ごろにはゴム長靴も売り出された。
 洋食は、軍隊や軍人家庭の影響もあって比較的早くからなじまれていたので、明治の末にはさほど珍しいものでもなくなっていたが、大正に入るといっそう普及の度も加わった。洋食風の献立であるライスカレーやカツレツなどは一般家庭の日常食卓にも上るようになった。
 大正八年の観桜会で、土手町の〓(かねく)野崎商店が出店でパンを売り出してみたところ大好評となった。その後も注文が増え続けたため、東京から職人を招き、アンパン、バターパン、クリームパン、ジャムパンなどを本格的に売り出すようになった。九年には、一日の食パン製造量一〇〇〇斤、菓子パンに使う小麦粉八〇貫という好況ぶりであった。この成功から、偕行社通りに小野千秋堂支店が開店し、宮川菓子店(和徳町)の子供パン・玉子パン、三国屋(茂森町)の食パンなど広がりをみせていった。
 大正十二年、元寺町の天香堂では、シュークリーム、ドーナツ、サンドイッチ、スポンジケーキ、アップルパイなどを売り出した。同店は十四年から、「天香堂パーラー」と改称し、ココア、コーヒー、紅茶なども提供して、新しい洋菓子類を市民に提供した。
 大正五年の春には公園二の丸に「末広」、六年には「公園バー」と、ビールや西洋一品料理を出す店が登場した。中土手町の富田牛肉店では、八年から店の二階に一品洋食と牛鍋の食堂を始めた。

写真203 中土手町富田肉店元旦風景

 弘前で初めてのカフェー「オーロラ」は、大正八年、慈善館に近い富田大通りに現れた。名はカフェーであったが、内容は各種パン専門の喫茶店であった。「オーロラ」はまもなく、弘前座横の公園堀端に通じる小路に引っ越し、その隣には洋食と洋菓子・アイスクリームの「パリスタ」、堀端に沿って裁判所の向かいには、やはり洋食・カフェーの「睦家」が開店した。

写真204 睦家食堂

 大正十二年に、慈善館向かいにカフェー「ライオン」が開店した。白いエプロン姿の女給が洋酒・洋食を提供し、いわゆる近代的カフェーの最初であった。その後、カフェーなど洋風飲食店は、続々と慈善館通りに集中して開店した。この地域は、土手町・山道町・品川町・住吉町にまたがり、さらに土手町目抜き通りから富田大通りを経て師団通りへと続いている。そのため、昼は軍人や入営兵の面会客でにぎわい、夜はネオンの輝く歓楽街となった。やがて昭和に入り、この地域は「銀座街」と通称されるようになるのである。