市の衛生対策と生活改善運動

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大火水道設備の必要性を高めたが、同時に市民に衛生問題の重要性をも植え付けた。伝染病対策をはじめ、衛生政策の必要性が高まっていたが、弘前市だけでなく青森県でもっとも関心を集めたのは、トラホーム(トラコーマ)だった。
 青森県は日本トラホーム罹病者が多かった。トラホームは眼病の一種であり、悪化すれば盲目となる危険性を伴っていた。昭和三年(一九二八)十月一日、青森県警察部ではトラホーム予防デーの実施を各市町村に呼びかけた。これを受けた弘前警察署は予防デーのパンフレットを作って各戸に配布し、「弘前市立病院眼科医虎眼予防撲滅」と題する記事を新聞に掲載して、予防宣伝に努めた。

写真7 昭和10年4月11日付『弘前新聞』

 市当局は昭和四年になってから、年々増加傾向にあった伝染病対策にもとりかかった。七月二十日、市の関係当局は「腸チフス予防デー」と題するパンフレットを作り、市民に配布している。パンフレットは、チフスとは「口から入る恐ろしい伝染病」だとして、ハエの駆除を説いている。そのほか衣類や食器類を清潔に保ち、飲料水、なかでも井戸の近傍を清潔にして汚水を流さないよう注意している。いずれも至極当たり前のような内容といえるが、水道設備が満足に整っていない当時の状況を考慮すれば、非常に大切な条項だった。ハエを見ることも少なくなった今日だが、当時は市内にもハエが多数いたのである。
 ハエを多数発生させた一つが牛馬糞だった。牧場でしかお目にかかれない現在とは違い、荷物運送に牛馬車を使い、陸軍将校が馬に乗り、農家が牛を使っていた時代である。弘前市は第八師団を抱え多数の将校が馬に乗っていた。市民は馬糞を見慣れていたといえよう。
 しかし凶作救済策の一つとして道路舗装が事業化されるにしたがい、市街地が整備されるのに牛馬糞が路上に落ちていては、美観を損ね衛生的にもよくないとの声が高まった。そこで県警察部は昭和十年四月、各警察署長宛に対応策を命じた。沿道居住者や建物管理者に道路掃除を督促し、荷牛馬車の使用者には、自発的に糞収容箱をとりつけさせるなど、掃除を徹底させた。
 それでも牛馬糞対策は不十分・不徹底だったらしく、昭和十五年七月三日、乳井英夫弘前市長と弘前市町会長会は、鈴木登知事宛に、牛馬糞処理に関する対策を要請した。弘前市への交通量が激増するに伴い、牛馬糞が路上にたまってハエやカが大量に発生し、市民は清掃に悩まされ疫病流行の恐怖に生活を脅かされているというのである。また町会長会でも牛馬に糞放袋をつけて処理をはかり、違反者を厳重取締りの上、糞尿は農村自給肥料に用いれば一石二鳥という案を提示していた。
 衛生問題は弘前市を含む東北地方にとって深刻な問題だった。東北地方の昭和農村恐慌は、生活風習と衛生設備が劣悪なことにも起因していたからである。そのため東北振興当局と日本学術振興会が中心となって、東北地方の生活改善を督促する運動が高まった。日本学術振興会は昭和七年、皇室の下賜金を基に設立された財団法人で、総裁は秩父宮だった。文部省が所管する学術研究奨励機関だったが、同振興会は当時東北の農村問題を重要な研究テーマとしていたのである。
 生活改善運動自体は古くから全国的に興り、運動もなされていた。だが昭和農村恐慌の衝撃が運動を本格的なものにし、東北生活更新会が設立されることになった。東北生活更新会は文字どおり東北地方の生活改善運動を推進する団体だった。農山漁村の建築構造、生活状況、衣類や寝具に至るまでを徹底調査し、改善方法を伝達して、衛生思想を植え付け、病害の駆除を施すことが目的だった。更新会は、ほとんど地面の上で行っていた炊事場に流し場を作ったり、土間や便所も改善を施すよう指導している。万年床と呼ばれ、常に不衛生な寝具を問題視し、家畜とともに生活している状況をやめさせるなど、あらゆる観点から農家の生活改善を進めたのである。
 東北農山漁村の生活改善運動には、弘前市出身の今和次郎も大きく関わっていた。今和次郎は弟子の竹内芳太郎と昭和十年前後に青森県各地の農山漁村を調査し、民家の構造を写真に収めスケッチを残した。彼の調査と研究成果が直接人々の救済につながったわけではなかった。しかし彼が残した写真やスケッチは、東北の農村の実態を関係者の間に広めたことで大きな意義があった(今和次郎の残した写真については『青森県史』資料編近現代3及び4に採録のものを参照)。