鉄道営業の整備

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昭和二年(一九二七)七月には、弘前市会において五能線の列車を弘前駅に直通させ、その発着点とするよう鉄道大臣ならびに仙台鉄道局長宛に陳情することが可決された(同前No.二一一)。これは弘前まで来るのに川部駅で乗り換えなくてはならない煩雑さを解消するためと、同年九月開業予定の弘南鉄道(弘前-尾上間)への接続の便に供するためとしており、先述の弘藤鉄道が計画されたことと相通じるものがある。次の資料は、昭和四年九月に弘前商工会議所から政府等へ提出された同じ内容の請願である。
  五能鉄道弘前駅ニ直通セシムル件ニ就キ再請願
五能鉄道弘前駅ニ直通セシメ弘前駅ヲ以テ其発着点タラシムル件ニツキ曩キニ当所会頭及当市長並ニ該沿線各駅町村長ノ名ヲ以テ請願ニ及ヒタルコト一再ニ止マラサルニ未ダニ御採用ノ御模様無之ハ生等ノ甚ダ遺憾トスル処ニ候
然ルニ這般鉄道省ニ於テ川部駅拡張工事設計中ニアリトノ風説有之而シテ其工事ハ稍々大規模ノモノナルヤニ仄聞致シ候テハ何等カノ決定的御方針ノ下ニ改修セラルヽニアラサルヤヲ想ヒ懸念ニ堪エサル次第ニ御座候
該線ヲ弘前駅ニ直通セシムルノ理由ハ再三縷陳致シ候処ニ有之殊ニ近ク本年四月二十七日附ヲ以テ提出致候請願書ニハ
一、弘前ハ五能線関係ノ津軽平原ニ於ケル各町村ノ住民ト物資トニ対シテ密接ナル関係ヲ有スルト共ニ其産業並ニ経済組織ノ中枢トシテ存在スルコトヲ統計ヲ掲ケテ明記セリ
二、弘前ヲ中心トスル社会並ニ一般人事ノ関係ニ到リテハ教育地トシテ毎日通学生ノ多キコト病院患者ノ集注地タルコト及祭事其他ノ関係ニ於テ市郡住民ノ往来頻繁ナルコト
三、師団所在地トシテ交通ノ利便ヲ閑却スベカラサルコト
四、川部駅乗換ニヨリ川部駅ニ於ケル乗換客ノ混雑時間ノ空費及弘前川部両駅間列車内ノ雑踏名状スベカラサルコト
等ノ諸理由ヲ挙ケテ御明鑑ニ訴エタル次第ニ有之候而シテ上記理由中日々不便ト苦痛トヲ感シツヽアルハ実ニ第四項ノ末尾ニ記セル弘前川部両駅間列車内ノ混雑ニ候
両駅間ハ僅々三哩九分約八分時ノ道程ニ有之至極短距離短時間ナルガ故ニ列車内ノ混雑ト苦痛トヲ忍バシムベシトナスカ如斯現象ハ祭時其他ノ場合ニ於ケル一時的ノモノナリトスレバ或ハ恕スベキ点可有之候モ而カモ常態ニ放置シ以テ旅客ノ苦痛ト煩労トヲ顧ミズト致候テハ之レ決シテ鉄道省ノ御本旨ニ無之事ト確信仕候
冀クハ五能線弘前駅ニ直通セシメ以テ一方津軽平原並ニ西海岸ノ開発ニ対シ一層ノ利便ヲ供与セラルヽト共ニ他方弘前川部両駅間列車内ニ於ケル旅客ノ苦痛ト混雑トヲ一日モ早ク緩和セラルヽ様御賢慮相仰キ度ク茲ニ謹而及再請願候也
  昭和四年九月四日
    弘前商工会議所会頭 宮川忠助
 鉄道大臣
         宛
 仙台鉄道
 青森運輸事務所長
(『弘前商工会議所月報』第二一〇号による)

 弘前市は、官立弘前高等学校をはじめ、多くの学校を擁する学都であり、弘前周辺からそこに通う学生の交通手段として、鉄道は欠かせないものであった。昭和八年七月十一日付の『東奥日報』には次のような記事が見られる。
軍都弘前そして学都の弘前。その『学都弘前』のピンと来るものは弘前駅の列車通学生の素晴しい事だ。若く潑剌たる朝の朗らかさはこの若人達とともにある。毎朝七時四十一分の上り列車と七時三十七分の下り列車が弘前駅に到着と共に、ハツラツたる青春群がどっと構外へ吐き出されるあの盛観。ホームから駅前広場は『若さ』で一杯でグッと胸を突くものがある。其の通学生は実に一千人。東北各駅でも、仙台に次ぐ二位の素晴しい数である。内、女学生が四百五十人を占めてゐる。弘前高校生の蛮カラタイプから小学児童の可憐どころまで動員されて、この若い元気な時間は『学都弘前』の一つの魅惑だ。弘前駅調査の六月末現在の通学生総数は九百二十四人、昨年に比べると百二十三人増えてゐる。和洋裁縫女学校生徒は急に増加して百九十三人から二百五十三人となってゐる。学校別にしても和洋校が第一位で、次は弘前中学の百九十一人、義塾の百二十四人、弘高女の百十五人となってゐる。内訳は左の通り。▽弘高一三▽弘中一九一▽弘工八三▽義塾一二四▽高女一一五▽弘女四五▽和洋二五三▽家政四六▽女子実業二▽高小一二▽玉成二〇▽商専四▽時敏五▽二大二▽一大九 これらはみんな午後二時三十六分下り、同三時五分の上り、同四時五十六分の下りで、それぞれ帰るが、その頃も、駅待合室は男女学生で一杯となる。これは弘南鉄道の分が入ってないが、弘南を入れると千二百名位になると観測されてゐるが、『学都弘前』の朗らか味は実にこの時にあり、この通学列車にうかがはれる。


写真40 『東奥日報』(昭和8年7月11日付)