満州事変から太平洋戦争へ

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満州事変が勃発した昭和六年九月から、日本軍国主義化への道を突き進んでいった。軍国調の波が、弘前にも否応なしに押し寄せてきていた。武道と訓練が強化され、軍事教練の成果が年一回の査閲によって評価されるようになった。
 また、勤労愛好の精神養成の必要が叫ばれ、式典などに分列行進が行われるようになると、天皇皇族による御親閲も頻繁に行われるようになった。昭和十年代の初めだけでも三回行われている。その都度、弘中東奥義塾、弘前工の弘前市内の中学校は参列した。昭和十二年七月の日華事変勃発後は、全面的に戦争協力が要請されるようになった。勤労作業は、冬の除雪、除草、整地、長勝寺境内の忠霊塔の建設などがある。学校林であった座頭石の杉の植林なども、昭和十四、五年ごろの勤労作業の涙と汗の結晶である。
 昭和十六年十二月八日、太平洋戦争の火ぶたが切って落とされた。戦線は一挙に広がったが、戦局は半年にしてすでに破綻(はたん)を生じた。このような時期に動員されたのが「学徒」であった。学徒の勤労作業の期間は、当初は年間三〇日と定められていたが、やがて「年間概ね三分の一相当期間」となり、戦争が苛烈を極める昭和十九年になると、通年動員が決定され、学び舎を後に、続々と軍需工場へ動員されるようになった。
 弘中では、初めは校庭の防空壕づくり、船沢の弥生部落の開墾、遠いところでは三本木原の開拓であったが、戦争末期の十九年ともなると、学徒動員の第一陣として、五年生二五〇人が横浜の自動車工場へと出発している。彼らは激しい空襲や艦砲射撃、食糧不足や病気などの悪条件をくぐり抜けて、昭和二十年五月までその任を果たした。
 四年生は、九月に大湊と三沢飛行場を結ぶ道路建設のために四〇日間動員されているが、彼らもまた空襲と食糧不足に悩まされた。翌年には川崎の東京航空計器に動員されている。この年三月には、現地の神奈川県立第一中学校講堂を会場に卒業式があった。警戒警報下に、防空頭巾で身を固めたまま挙行されたこの卒業式は、戦時特例により、四年修了で卒業させられたのである。四、五年生とも奇跡的に空襲による死傷者がなかったのは幸いであった。