戦時中の弘高女

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戦争が拡大するにつれて、弘高女もいや応なしに戦時体制に組み込まれていく。戦争中は「銃後の守り」といったが、出征兵士の見送りや戦死した英霊たちの出迎えが彼女らにも課せられていた。このために授業時間は犠牲となった。昭和十五年の生徒数は八〇〇人で学級数が一六であった。
 昭和十六年、太平洋戦争に突入すると、弘高女もまた他校と同じように勤労奉仕・農作業・防空演習防空壕づくりなどが毎日の日課となった。修学旅行も運動会も中止となり、音楽会も規模を縮小して行われている。
 戦局がいよいよ苛烈となった昭和十九年には、青森県指定看護婦養成所と臨時青森県国民学校教員養成会が置かれ、体操場で軍用衣服の下請け作業を行うようになった。三、四年生は授業を休んで、縫製班・運搬班・ミシン修理班に分かれて工員のように働いた。体操場は被服工場と化した。また、高学年の中には、女子挺身隊として大湊要港部へ出動した一五人もあった。敗戦も間近い昭和二十年四月から八月まで、授業日数はわずかに二〇日間であったという。