昭和三年、実業学校としての認可を申請したが、まもなく認可が下りた。学校はこの朗報に沸いた。本県最初の女子の甲種(四年制)であったばかりでなく、東北としても宮城県、山形県に次ぐ三番目の快挙であった。他校に後れたものの、女子中等学校として認められた学校では、立て続けに校歌・校章・校訓を制定した。
昭和三年には函館に三日間の修学旅行を実施している。和洋裁縫女学校としては最初の県外旅行である。弘前高女の札幌修学旅行(昭和七年)よりも早い。柴田校長の卓抜した着眼がここにも活かされている。また、バザーは大正十四年から行われていたが、この年は御大典記念生徒製作品バザーとして開催したところ大盛況で、年中行事として定着した。
和洋裁縫女学校の歴史は、そのまま校舎や校地の増築、拡張と結びついているが、生徒も弘前周辺からばかりでなく、県外からも集まるようになっていた。不況に加え、物情騒然とした時期に経営難の私立学校が多かったときに、柴田やすの和洋裁縫女学校だけは「模範的経営をなし、校長の人格と職員の指導よろしきを得て、むしろ経営は頗る楽なため、生徒数の如きも県立学校でさえ募集難におちいっているにもかかわらず、押すな押すなの盛況ぶりで、増築に着手するなど異例もある」と、『讀賣新聞』(昭和八年四月二十六日付)に報道されたほどであった。
昭和九年には、洋裁速成科を置いた。このころになると、弘前でも洋服を着る人が多くなり、一般家庭の主婦にも、夏などは「簡単服」と称する洋服まがいの服装が流行しつつあったのに目をつけて対応したのである。
戦争がいよいよ苛烈になった昭和十八年には、創立二十周年を迎えたが、時勢の推移に敏感で、柔軟な対応をする和洋裁縫女学校にとっては、不景気も戦争も関係なく、中瓦ヶ町・上瓦ヶ町の土地を購入して拡大を続けた。
戦時中の女性の服装は、勤労奉仕や防空演習などの活動に便利なモンペが愛用されたが、柴田校長はそれを改良して、袴式のスマートではきやすいものに工夫している。
写真69 柴田式モンペ(昭和15年)
昭和十九年九月には、校名の「和洋」の二字が皇国教育の立場からして相応しくないことと、柴田校長が藍綬褒章を受章したことを機に、その栄誉を長く継承したいという理由から、和洋裁縫女学校を「柴田女子実業学校」と、柴田を冠称したものに校名変更を申請し、認可されている。
十月一日になると、柴田女子実業は県から看護婦養成所の指定を受けた。このころになると戦争は壊滅的な局面を迎えていたが、あらゆるものが戦力として結集されていき、市内の女子校もまたおおむね軍隊の被服の製造、修理工場と化して、戦力の一端として駆り立てられていった。柴田女子実業においても、授業を犠牲にして作業に励み、生徒たちは女工員として献身的に働いた。校庭での畑づくりや近郊の田畑へ通っての食糧増産、防空壕づくりや防空演習に明け暮れたのである。出征兵士の歓送迎や慰問袋作り、勤労奉仕、神社への武運長久祈願などなどである。
写真70 柴田女子実業軍服製造修理工場(昭和19年)