昭和二十年(一九四五)といふこの年は私だけでなく実に日本そのものにとって、いや世界にとって忘れてならない年であろう。忘れられない年である。
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しかも、それは日本が敗けたとか、アメリカが勝ったとかいふことではない。私にとっては敗残に厳たる事実として提示され、顕現された国体の存在のありがたさの故にこそ、忘れられない年なのだ。
十二月二十五日敗戦後はじめて(石原)閣下にお会いし、閣下の深い、実に深い、そして揺ぎなく、しかも澄み切った信仰的態度にふれた時、私はまだまだ真剣さが、勉強が、苦斗が、精神が足りないと恥入った次第だ。
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しかも、それは日本が敗けたとか、アメリカが勝ったとかいふことではない。私にとっては敗残に厳たる事実として提示され、顕現された国体の存在のありがたさの故にこそ、忘れられない年なのだ。
十二月二十五日敗戦後はじめて(石原)閣下にお会いし、閣下の深い、実に深い、そして揺ぎなく、しかも澄み切った信仰的態度にふれた時、私はまだまだ真剣さが、勉強が、苦斗が、精神が足りないと恥入った次第だ。
卅一日午後十一時記
昭和二十一年元旦、天皇は年頭詔書で現御神(あらひとがみ)としての存在を否定して人間宣言をした。一月四日、マッカーサー元帥は国家主義団体として東亜連盟同志会の解散を命じた。しかし、弘前では会員一〇〇人内外で地下運動を企画、四月三日神武天皇祭を期して発足せんとしたが、石原莞爾の忠言で中止、翌二十二年佐藤は公職追放となり、昭和二十七年四月占領政治が終わって解除の身となった。
この間、二十一年に「陸奥新報社」創業に参画、その他に「農業懇談会」(昭和二十三-二十八年)を立ち上げ、二十三年には青森県りんご協会に就職、二十四年二月、地方文化運動の一環として同人誌『道標』創刊、二十八年十月には東亜連盟再建のため東京に移住した。しかし失敗、翌年秋帰弘し、十一月胸部疾患のため入院生活を送り、昭和三十年五月弘前市教育委員会に採用、やっと安定生活を得た。市民課長時代に『広報ひろさき』は県一位となり、また、市制施行七十周年の記念事業として『弘前市史』編纂事業に着手、社会教育課長時代はPTA・青年団体・子ども会・公民館の育成指導に大活躍をした。昭和四十三年七月教育次長となったが、同年十二月九日肺結核等の病因で没した。五十四歳だった。
写真86 同人誌『道標』(昭和24年創刊)