敗戦直後の弘前市民

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敗戦間際の弘前市は第二次建物疎開を計画し、八月二十七日までに完了する段階にあった。そこへ八月十五日、終戦の詔勅が発布され、県当局は建物疎開の中止を通達してきた。ところが弘前市では当局の督励が効きすぎて、家屋を取り壊してしまった人々もいた。弘前署は十六日、疎開完了者でも元の位置に復旧を希望する者には労力、輸送などを極力斡旋した。貧困のために費用が支出できない場合は、事情にもよるが、無料で物資輸送を斡旋するよう各町内会長を招集して通達している。電灯は灯火管制が徹底されたため全部撤去されていた。そのため配電会社弘前営業所が各戸一灯ずつ復旧工事を行うことになった。

写真102 敗戦直後の富田枡形界隈

 しかし二度にわたって建物疎開を徹底しながら、突然終戦敗戦)を伝えられ疎開も中止になったのだから、市民の不満と激怒は相当だったに違いない。事実、疎開を実施・完了し、家屋解体実施中の者に対する当局の補償の有無は決まっていなかった。『東奥日報』は関係当局が該当者へ事情説明に努めていると報じたが、各地で相当な混乱と物議が醸された。
 敗戦後の日本各地では人口の大移動が起こっていた。疎開者が児童を中心に帰郷し、内外各地に散在していた多数の将兵が復員したからである。その影響は弘前市にも現れた。ちなみに青森、弘前、八戸三市の十一月現在での人口統計を見ると、敗戦後の興味深い事実が判明する。数度の空襲で市の中心部を壊滅・全焼させられた青森市は、一〇万人あった人口が、五万六六五二人へと半減した。戦災を避け郡部へと避難した人も多く、一時は三万人にまで落ち込んだが、戦後復興のために戻ってきた人々も予想外に多かったので、市当局も驚いていた。これに対し弘前市は、復員者と疎開者の影響から六七四五人も人口が増加し、五万七五七〇人となっている。八戸市は七万七五〇一人で、前年の二月より四八〇人の人口減を見ながらも、この時点でもっとも多くの人口を抱えていた。それでも弘前市に戻ってきた復員将兵と疎開者がいかに多かったかが理解できよう。軍都弘前の残滓(ざんし)といえる現象である。
 人口の急激な増大により、敗戦直後の弘前市街は混雑し、対面通行の徹底が指示された。弘前警察署は市の後援により九月二日から八日まで交通道徳昂揚運動を実施している。それは次のようなものだった。
  一、歩行者は必ず右側を通行すること。
  二、自転車、自動車、其の他車馬は今迄通り左側を通行すること(乳母車は歩行者見做し)。
  三、三人以上並んで歩かぬこと。
  四、道路に於てボール投、其の他の遊戯をせぬこと。
  五、道路を時々清掃し放尿・喀痰をせぬこと。
いずれも小学校教育で実施されるような指示だが、そのような指導が市民全体に必要なほど、敗戦直後の弘前市街は混乱していたのである。