戦前・戦時中「玉音放送」以外に、天皇の生の声を聞いたことがなかった国民にとって、間近に見る天皇の姿は、あまりにも現人神とはイメージが異なって見えた。昭和天皇の独特な話され方や「あっ、そう」という応えられ方が、愛嬌があり庶民的で親しみのもてる印象を国民に与えたのである。そのためもあって天皇の巡幸は各地で大歓迎された。もちろんそれには相応の準備があり、各地で入念な取締りと治安維持対策があったからである。これまでの国民の天皇に対する敬意なども作用していよう。けれども結果的に天皇の巡幸は、現人神のイメージを壊し、統治権者としての天皇から象徴天皇へ転換する上で大きな効果をもった。天皇の巡幸は国民の天皇に対する好意的な印象を引き出した。その点て天皇や側近をはじめ、日本の政界やGHQ幹部にとっても、占領政策を円滑に行う上で非常に大きな役割を果たしたといえよう。
昭和天皇が青森に巡幸したのは昭和二十二年八月になってからである。十日、尻内(現八戸)駅に到着し、まず三戸郡館村(現八戸市)を視察している。これを最初に青森、浪岡、黒石と巡幸し、藤崎を経由して十二日、弘前市に到着した。道中、沿道では遠くの村々からも人人が集まり、天皇一行は至る所で熱烈な歓迎を受けた。
弘前市に着いた天皇一行は、まず国立弘前病院を視察した。工藤副院長の挨拶の後、院内をめぐり患者を慰問し職員を激励している。病院をあとにした天皇は宿泊所となっていた弘前市公会堂に入り、公会堂内でりんご栽培や農業経営に関する説明を聞き、夜にはねぷたを見て、十二日の巡幸を終えている。弘前のねぷたは戦時中、ほとんど運行を禁止されていた状態だったが、昭和天皇の来弘を機に本格的に再開することとなった。ねぷたは明治天皇をはじめ、秩父宮夫妻や高松宮来弘の際にも運行しており、弘前市民にとって皇室との関係を強く意識させる行事となった。
写真103 昭和天皇の弘前巡幸
天皇は八月十三日に青森県をあとにした。わずか四日間の来県、二日間の来弘だったが、天皇に対する県民、市民の歓迎ぶりは熱烈であり、天皇が巡幸する各地で大勢の人々が集まった。弘前市民にとっても天皇に対する感情は、戦前までの統治権者ないし現人神の印象とは異なるが、相変わらず敬慕の念が強いものであった。